幕末日本の歴史江戸時代

幕末に活躍した青い目をした日本人「アーネスト・サトウ」を歴史系ライターが解説!

アーネスト、日本各地を旅して記録を残していく

当時、東南アジアに赴任していた外交官は、勤続5年以上であれば約1年の休暇が認められていました。そのため幕末の激動期が一段落付いたと察したアーネストは1年半ほどイギリスへ帰国しています。

そして休暇明けの1870年、再び日本へ戻ってきたアーネストは外交官の仕事のかたわら、日本各地を旅してその記録(紀行文)を残しました。

同年8月に箱根・熱海・江の島を旅行し、英字新聞ジャパン・ウィークリー・メール紙へ紀行文を寄稿していますね。ちなみにジャパン・ウィークリー・メール紙は来日外国人たちの貴重な情報源であり、今でいうガイドブックのようなものでしょうか。かのラフカディオ・ハーン(小泉八雲)も寄稿しています。

また1872年1月には、甲州街道や富士山付近を旅しました。厳冬の富士山へ登ろうとして地元の人間から「雪が深すぎて無理だ!やめておけ!」と言われた話や、あまりの寒さにインクも凍ってしまった話など、外国人でありながら平然と日本各地を旅する姿が想像できておもしろいですね。

そして同年11月からは全国を股にかけた大旅行を企図しました。海路で伊勢神宮や瀬戸内海、長崎、山口、大阪を巡り、京都に入って名所旧跡を見学してから年を越し、さらには翌年1873年1月には中山道に入り、軽井沢経由で妙義山に登ったうえで東京に戻りました。

しかし、なぜこれだけの大旅行を短期間のうちに行おうと考えたのでしょうか?個人的な興味?確かにそれもあるのでしょうが、当時のイギリス公使館の基本方針が、各地の地理的条件や政治、経済、社会的状況を把握することだったからです。

明治維新を迎えて新しく生まれ変わった日本という国に、どのような国民がいて、どのような考えを持ち、どのような風俗習慣があるのか?外交だけでは見えてこない日本の真の姿を把握する必要があったからでしょう。

そればかりではありません。アーネストらがもたらした情報が一般の来日外国人にも役立つことにもなりました。旅行規則が制定されて、外交官でない一般の外国人が外国人旅行免状さえ取得すれば、指定された地域への休暇に出かけられるようになったのは1874年のこと。そこに至ってアーネストが蓄積した情報が実際に役に立つことになったわけです。

日本人女性を妻とする

アーネストは日本各地を旅行している合間を縫うかのように、一人の日本人女性と親しくなり妻として迎えました。女性の名は武田兼(かね)。ただし籍を入れなかったため事実婚という形ですね。

この時アーネストは28歳、兼は18歳。10歳の年の差婚でしたが、長男栄太郎、次男久吉ら3人の子宝に恵まれたそうです。長女は夭折してしまいますが、アーネストは後年、久吉をイギリスへ呼び寄せて植物学を学ばせていますね。のちに彼は高名な植物学者となり、高山植物研究の権威となって尾瀬の自然を保護し、「尾瀬の父」と呼ばれるようになりました。

アーネストは戸籍こそ入れていないものの、家族を愛し、家族のために最後まで経済援助は欠かせませんでした。アーネストのお孫さんによると、ある時、兼の遺品を整理しようと段ボール箱を開けてみたところ、アーネストから家族あての手紙が500通くらい出てきたそうです。

また、このお孫さんが女子大学に入学する際に戸籍謄本を取り寄せたところ、祖父の欄に「アーネスト」ではなく【薩道静山】と書いてあったそう。これはアーネストの雅号とのこと。雅号とは画家や文人などが付ける風雅なハンドルネームのようなもので、アーネストは日本の書も嗜んでいたそうですね。

自分の将来と家族とのはざまで

image by PIXTA / 44528920

幕末の日本へやって来てから、はや20年以上の月日が経過しました。日本で培ってきた経験や見識を今後どのように活用するべきか?そして自分の将来とは?思い悩んだ彼に決断の時が迫ります。

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明石則実