室町時代戦国時代日本の歴史

九州を席巻した残忍なる肥前の熊「龍造寺隆信」の生涯をわかりやすく解説。破滅は既定路線だった?

戦国武将はとかく名将や名軍師ばかりにスポットライトが当たりがちですが、暴君と呼ばれ、残虐さが後世に伝わる武将の方が、私たちにとってはインパクトが大きいかもしれません。「肥前の熊」と呼ばれ、勢いのままに九州を飲み込もうとした龍造寺隆信もまた、残虐で横暴な面が際立つ武将でした。そんな彼が思わぬ敗北によって命を落とすことになったのは、いったいなぜだったのでしょうか。

一族を皆殺しにされた少年・隆信の波乱万丈な前半生

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不明(宗勗賛) – The Japanese book “Japan, Conutry of Beauty: Inaugural Exhibition (美の国日本:開館記念特別展)”, Nishinippon Shimbun-sha (西日本新聞社), 2005, パブリック・ドメイン, リンクによる

肥前(佐賀県)に生を受けた龍造寺隆信は、幼い頃に出家し、仏門に入りました。しかし、祖父や父を殺害され、一度は国外に逃れます。そこから仇を討って復帰を果たし、ついに龍造寺家の当主の座に就くこととなりました。その波乱の前半生をご紹介しましょう。

幼くして出家した才気煥発・腕力十分の少年

享禄2(1529)年、隆信は肥前(佐賀県)の武将で、少弐(しょうに)氏に仕えた龍造寺周家(りゅうぞうじちかいえ)の長男として生まれました。

幼い頃に出家した隆信は、将来はそのまま僧となるはずでした。とはいえ、幼いながらも隆信は人並み外れた腕力を持ち、才気煥発だったそうです。そのため、曽祖父の龍造寺家兼(りゅうぞうじいえかね)からは「仏に帰依するなら高僧になるだろう」と太鼓判を押されていました。

祖父や父、一族を皆殺しにされる

ところが、天文14(1545)年、思いもかけないことが起こります。隆信の祖父・龍造寺家純(りゅうぞうじいえずみ)、父・周家ほか一族の多くが、主君・少弐冬尚(しょうにふゆひさ)への謀反の容疑をかけられ、冬尚の腹心である馬場頼周(ばばよりちか)の謀略によって皆殺しにされてしまったのです。

出家していた隆信は難を逃れ、同じく生き残った曽祖父・家兼に連れられ、筑後(福岡県南部)の蒲池鑑盛(かまちあきもり)を頼って落ち延びていきました。

すでにこの時、家兼は90歳を超えていましたが、彼は曾孫のためにもと、蒲池氏の援助のもとで翌年には挙兵し、馬場頼周を討ってお家再興を果たしたのです。

曽祖父の遺言により還俗する

隆信を守るために挙兵し、一族の仇を討った曽祖父・家兼は、老齢もあってそのまま力尽き、亡くなります。死に際して彼は遺言を残しますが、それは、「隆信が還俗すれば、必ず家を繁栄させる」というものでした。

そして隆信は還俗し、本家筋である龍造寺胤栄(りゅうぞうじたねみつ)に従い、少弐冬尚を追い出して下剋上を果たします。ただ、胤栄がすぐに亡くなってしまったため、彼が胤栄の未亡人をそのまま娶り、本家を継ぐ形となったのですが、それに対しては反対の声も多く挙がりました。結果的には分家筋の隆信が主筋を乗っ取ったわけですからね。

しかし、すでに隆信はこのころから非凡な才能を発揮し始めたのでした。

家中の不満分子を抑え、強大な大友軍に打ち勝ち、肥前統一を果たす

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主家の当主となった隆信に対し、反対派が蜂起して彼を追い出した時期もありました。しかし再び復帰した彼は、肥前統一に焦点を定め、九州の雄・大友氏との決戦に臨みます。そしてそこで兵力差をひっくり返す大勝利を収めて、そのまま一気に肥前統一へと向かいました。もっとも勢いがあり、隆信の才能が輝いていた時期について見ていきましょう。

不満分子を抑え込む辣腕

分家の隆信が主家を継ぐことに不満を持つ家臣たちに対し、隆信はすぐに手を打ちました。当時、西国では並ぶものなき大大名だった周防(すおう/山口県)の大内義隆(おおうちよしたか)と通じ、彼の力をバックに不満分子を封じ込めたのです。

しかし、計算違いだったのは、天文20(1551)年に大内義隆が家臣の陶晴賢(すえはるかた)によって自害に追い込まれてしまったことでした。

このことにより、反対派の家臣たちが蜂起し、隆信は城を追われてしまったのです。彼が頼ったのは、かつて保護してもらった蒲池鑑盛でした。「義心鉄のごとし」とうたわれるほど義侠心にあふれていた蒲池鑑盛は、再び隆信を援助してくれたのです。こうして、隆信は領地に復帰することができました。

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