目標を「肥前統一」に掲げる
その後、隆信はまず肥前を統一することに専心します。永禄2(1559)年には追いやっていたかつての主君・少弐冬尚を自害に追い込み、立て続けに周辺豪族たちを下して勢力を広げていったのです。隆信の快進撃を警戒して攻撃を仕掛けてくる豪族も少なくありませんでしたが、隆信はそれらをことごとく退けました。
そして、豊後(大分県)の雄・大友宗麟(おおともそうりん)も、隆信の勢いを見過ごせなくなっていました。元亀元(1570)年、宗麟は弟・親貞(ちかさだ)を総大将とした大軍をもって肥前に侵攻し、「今山の戦い」が起こったのです。
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大友の大軍を前に、義弟と母の大きな後押し
大友軍が6~8万とも言われる大軍だったのに対し、隆信率いる龍造寺軍はわずか5千ほどだったと伝わっています。正面からではとても勝ち目がないため、隆信は籠城戦を選びました。とはいえ、勝算が見込める戦ではなかったのです。大友軍はハナから勝ちを見込んで酒宴を開いているというありさまでした。
しかしそこで、側近の鍋島直茂(なべしまなおしげ)が進言します。「大友軍は緩みきっておりますゆえ、ぜひ夜襲を仕掛けるべきです」と。
他の家臣たちは「勝てるわけないだろう」と消極的でしたが、そこで「私も直茂の意見に賛成です」と鶴の一声を発したのが、隆信の実母・慶誾尼(けいぎんに)でした。
大友軍に大勝利、そして肥前統一を果たす
実はこの慶誾尼、相当な女傑で、隆信に将来有能な腹心をつけてやりたいと考え、鍋島直茂の才気を早くから見込んでいました。そして、未亡人だった彼女は、なんと直茂の父・鍋島清房(なべしまきよふさ)のもとに押しかけ、夫人となってしまったのです。こうなれば隆信と直茂は義兄弟となりますから、必ず直茂が隆信を助けてくれるだろうと見込んでいたのですね。なんともすごい女性です。
そして隆信は直茂の進言を容れ、夜襲を決行しました。緩みきっていた大友軍は潰走し、敵将・大友親貞は討ち取られ、龍造寺軍の勝利となったのでした。
九州で幅を利かせていた大友軍を打ち破ったことで隆信の名は一気に高まり、彼は勢いを駆って同じ肥前の大村純忠(おおむらすみただ)や有馬晴信(ありまはるのぶ)を従え、天正6(1578)年、ついに肥前統一を果たしたのです。「肥前の熊」としての覚醒でした。
傲慢さが油断を招き、思わぬ最期を遂げる
肥前統一を成し遂げた隆信は、次に九州全土を手に入れることを視野に入れ始めました。しかし、そこで邪魔な存在だったのが薩摩(鹿児島県)の島津氏です。兵力ならば圧倒的に龍造寺が上でしたが、だんだんとひどくなっていった隆信の冷酷な一面が、人心を離れさせていたのでした。結果的に、それが彼の破滅を招く要因となったのかもしれません。隆信が、思わぬ最期を遂げるまでをご紹介しましょう。
徐々に浮き彫りとなった冷酷な一面
肥前統一から2年後、隆信は家督を嫡男の政家(まさいえ)に譲りました。とはいえ、実権はまだまだ隆信のもの。新たな彼の野望は九州を制覇することとなり、勢いを増してきた薩摩の島津氏が次なる敵となりました。
しかし、この頃から、元来横暴な性格だった隆信の悪い面が、徐々に表に出るようになっていくのです。
かつて助けてもらった蒲池鑑盛が亡くなると、息子の蒲池鎮漣(かまちしげなみ)が跡を継いでいたのですが、なんと隆信は彼が島津氏に通じたという疑いをかけ、謀殺してしまったのでした。それだけではなく、蒲池一族を抹殺してしまったのです。
このことに関しては、家臣からも反対の声が挙がっていました。龍造寺四天王とされた重鎮・百武賢兼(ひゃくたけともかね)は一連の謀略に反対の意志を示して参加せず、「今回のことは、お家を滅ぼすだろう」とまで苦言を呈するほどでした。
また、隆信に降伏した武将・赤星統家(あかほしむねいえ)が参陣要請に応じなかった際には、人質としていた彼の幼い息子と娘を惨殺してしまったのです。この非道ぶりに、赤星は島津方へと離反してしまいました。
次なる敵は島津氏!直接対決に臨む
隆信は以前よりも酒色にも溺れるようになっていたそうです。それもあって、猜疑心も強くなり、家臣にあらぬ疑いをかけては殺してしまうことが増えていきました。腹心であった鍋島直茂は度々注意していたのですが、それさえもうるさがった隆信は、直茂を遠ざけるようになってしまったのです。
一方、九州の情勢は島津氏の勢いがいちだんと増しており、隆信に従っていた武将が島津氏に奔るということも増えていきました。姻戚だった有馬晴信でさえも、島津氏に鞍替えしたのです。
これに怒った隆信は、天正12(1584)年、有馬晴信を討伐することに決めました。有馬晴信は島津氏に助けを求め、龍造寺軍と有馬・島津連合軍が激突することになったのです。これが、沖田畷(おきたなわて)の戦いでした。