味方の多さに油断し…思わぬ敗戦と最期
龍造寺軍は2万5千、対する有馬・島津連合軍は6千。以前、隆信が大友軍と今山の戦いを行ったときのような、明らかな多勢に無勢の構図となりました。そして、多勢になったことをおごった点で、隆信は大友軍と同じになったのです。
この時も、鍋島直茂はすでに勝ったも同然のような様子でいる隆信に、「警戒すべきです」と進言しました。しかしそれでも、隆信は直茂の言葉を聞こうとはしなかったのです。
龍造寺軍は多勢ということで、敵方の城にあっという間に迫りました。しかしそこは城に伸びる細い道で、周りは湿地帯だったのです。
伸び切った龍造寺軍の隊列に対し、島津方の伏兵が猛烈な勢いで矢と鉄砲を放ちました。龍造寺軍は逃げようにも逃げられず、逃げても湿地に足を取られて身動きが取れなくなり、次々と島津方の兵に討たれていきました。
壊滅状態となった龍造寺軍。乱戦の中、隆信もまた、敵兵に見つかり首を取られたのです。「肥前の熊」の最期は、あまりにあっけないものでした。
「肥前の熊」といえども、勇猛なだけでは勝者になれず
「肥前の熊」と称されるほど強い武将だった隆信。しかし、彼に決定的に欠けていたものは、主君としての寛大さでした。幼い頃に味わった一族皆殺しの悲劇が、彼の人格形成に影を落としていたのかもしれません。いくら強くても、人を愛し敬う心がなければ、いつしかそれは破滅を招く…隆信が滅びるのは、最後の戦いよりもずっと前から決まっていたのかもしれませんね。