ドイツプロセイン王国ヨーロッパの歴史

第一次世界大戦の前の大戦争「七年戦争」について詳しく解説!

第一次世界大戦と第二次世界大戦。この二つの戦争は世界を巻き込み、世界の体制をまるっきり変える事態を招きましたが、それ以前にもヨーロッパだけではなく他の地域などの広範囲を巻き込んだ大戦争が起こったことがあったのです。 今回はそんな第一次世界大戦以前の大戦争であった七年戦争について解説していきたいと思います!

七年戦争とはどんな戦争か?

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七年戦争は1754年から1763年まで行われた戦争です。

七年戦争が起こる前、急速に勢力を拡大していたフリードリヒ2世が率いるプロイセン王国と、神聖ローマ皇帝を兼ねていたマリア・テレジアが治めるオーストリア帝国の間でオーストリア継承戦争が勃発。この戦争はプロイセン王国の勝利に終わりましたが、オーストリアはこのリベンジを果たすためにプロイセン王国に再び宣戦布告。この戦争はプロイセン王国とオーストリア帝国だけではなく北米大陸の利権争いなども絡んでいきプロイセン側にイギリス、オーストリア側にフランス、ロシア、スペイン、スウェーデンなどが加わりヨーロッパのほとんどの帝国や王国が参戦する第一次世界大戦の前までは最大級の戦争へと発展を遂げることになりました。

七年戦争が起こった原因

7年間を争った七年戦争が起こった理由はこの当時オーストリア帝国とプロイセン王国が激しい対立状態にあったことがありました。

ドイツをめぐるこの両国はついに七年戦争へと発展していくことになりましたが、まずはどうして七年戦争か起こってしまったのかを見ていきましょう。

プロイセン王国とオーストリア帝国による対立

七年戦争が起こる少し前この当時300以上の国々に分裂していたドイツ地域には神聖ローマ帝国の皇帝位を独占しているハプスブルク家が統治するオーストリア帝国と急速に成長を遂げたプロイセン王国がその派遣を巡って争いを起こしていました。

そんな中でマリアテレジアの皇帝即位に反発したフリードリヒ2世がオーストリア帝国に対して宣戦布告。いわゆるオーストリア継承戦争を引き起こし最終的にはオーストリア帝国内の豊かな土地であったシュレージエン地方を割譲するに至りました。しかし、戦いはここで終わるわけではなくオーストリアはこのシュレージエン地方を再び取り返すためにこれまでイギリスと同盟関係を構築していたオーストリアはヴェルサイユ条約にてフランスと同盟。プロイセン王国はこれに対抗してイギリスと同盟関係を締結することになりました。こうしてプロイセン王国とオーストリア帝国の争いは同盟を組んだ同士をも巻き込むものへと変貌をとげることになるのでした。

北米大陸の利権争い

七年戦争が起こる少し前、イギリスやフランスはヨーロッパだけではなくこの頃新大陸として調査が進んでいた北米大陸への進出に熱心でした。

元々この新大陸には広大な植民地を有していたスペインやポルトガルといった大航海時代に積極的に支援していた国が北米大陸を支配していたのですが、時代とともにその勢力が衰退していくとその利権を引き継ぐためにヨーロッパ内で勢力を高めていたフランスとイギリスが争いを始めることに。

元々フランスとイギリスは百年戦争から第一次世界大戦までは仲が良くなるとは思えないまさしくバチバチの対立関係にあったため、このイギリスとフランスはその後植民地の利権や支配を巡って北アメリカやインドなどをで20世紀まで争いを続けることになります。

そんなフランスと対立関係にあったフランスはオーストリアと同盟を結びプロイセン王国と敵対していたスウェーデンなどもその範囲内に収め、フランスはオーストリア帝国やスペインやロシアなどを味方につけました。

このようにプロイセン王国とオーストリア帝国の対立やフランスとイギリスの植民地争いの2つの対立軸が交錯した結果、ヨーロッパ中を巻き込んだ大戦争へと発展を遂げることになったのです。

七年戦争の幕開け

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こうして様々な国の思惑があって起こるべくして起こることになる七年戦争。この七年戦争はプロイセン王国のオーストリア帝国領内への侵攻で幕を開け、ヨーロッパ各地に戦争をもたらすことになりました。

つぎはそんな七年戦争の経過について見ていきたいと思います。

プロイセン王国のオーストリア侵攻

1756年。オーストリア帝国を警戒していたフリードリヒ2世率いるプロイセン軍は突如としてオーストリアに侵攻を開始。

ザクセン地方を手中に収めて先制攻撃をすることによって数が劣っていたプロイセン軍をなるべくいい方向に持ち込もうとしたのです。

しかし、オーストリアに侵攻を行ったことでプロイセン王国から仕掛けてきたというイメージがついてしまい、オーストリアと同盟関係にあったフランスがプロイセン王国に宣戦布告。それを皮切りに次々と列強が参戦してきたことでプロイセンは一気に苦境に立たされることになりました。

プロイセン軍はそれでもオーストリアの重要都市であるプラハを包囲。しかしプラハを落とされたくないオーストリア軍の援軍によってプロイセン軍は撃退東からはロシアの軍勢、西からはフランスの軍勢に挟まれてしまいました。

しかし、プロイセン軍は11月にロスバッハの戦いでフランスに、12月にロイテンの戦いでオーストリアに勝利をおさめてこの苦境から脱し、その後も1758年8月にツォルンドルフの戦いでロシアを打ち破る事に成功して一気に苦境から脱出。プロイセン軍の優位に進んだ七年戦争でしたが、ここでプロイセン軍に思わぬ事態が起こってしまいました。

壊滅寸前のプロイセン

ロスバッハの戦い、ロイテンの戦いなどで連戦連勝したプロイセン軍でしたが、1759年に起こったクネルドルフの戦いでロシア・オーストリアの連合軍の連携ある戦法によって大敗北。4万9千人いた軍勢のうち約半数が死傷してしまい文字通りプロイセン軍は壊滅に追い込まれてしまいました。フリードリヒ2世はこの戦争の敗北を受けて自殺を考えたほどプロイセン王国からしたら大敗北に変わりないものだったのです。

さらに一時的にオーストリア軍によってベルリンが占領。イギリスはプロイセン王国に対してオーストリア有利の和平条約を飲まなければ援助を打ち切ると脅しにかかり、こうして七年戦争はオーストリアの決定的な勝利に終わるかと思われましたが、実はそうはいかなかったのです。

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