
ロシアの戦線離脱
プロイセン王国が滅亡寸前に追い込まれた1759年から2年後の1761年。この時オーストリアと連携していたロシアの女帝エリザヴェータが崩御。さらに跡を継いだピョートル3世がかなりのプロイセンびいきだったこともあり、これまで親オーストリア派であったロシアが一気に親プロイセン派へと変貌を遂げることになったのです。ピョートル3世はプロイセンの危機を救うためにロシアの軍勢はプロイセン領内から一斉に撤退。ロシアはプロイセン王国とサンクトペテルブルク条約を締結して戦線から離脱。さらにスウェーデン王国との講和を仲介してプロイセンは東の脅威から救われることになったのです。
戦争の終結
ロシアがオーストリア側から離脱したことはまさしくプロイセンにとったら天の助けに他ならないものでした。
プロイセンはこのロシアの離脱を機にオーストリアに兵力を傾けるようになり、その結果プロイセンとオーストリアは共に戦争継続不可能と判断するようになりました。
そして、1763年フベルトゥスブルク条約で和平が成立。この条約によってグラーツがプロイセンに返還される代わりにプロイセンはザクセンから撤退。7年に渡る大戦争は終わりを迎えることとなりました。
プロイセンの影響
七年戦争に辛くも勝利したプロイセンはこの戦争によって大国として見なされるようになり、国際的な地位も急上昇。プロイセンの領地もこの時確定することになり、ついにはドイツ統一の主導権を握ることとなります。
しかし、プロイセンの領地は七年戦争によって大幅に荒廃。フリードリヒ2世はこの状態をなんとかするために農地改革を実施。プロイセンは良くも悪くもこの七年戦争によって大きな転機を迎えることになったのです。
オーストリアの影響
オーストリアはシュレージエンの奪還に失敗したものの、ザクセンの領有が認められることになりひとまずの地位は確保するに至りました。
しかし、七年戦争による敗北はこれまで続けられていたマリアテレジアの行政と軍制改革の成功を証明し、以後20年間は続けられることとなります。また、この七年戦争の前に行われた外交革命によってマリーアントワネットとルイ16世が結婚したことがのちのフランス革命へとつながっていくことになりました。
こちらの記事もおすすめ

ベルサイユのばらが散った後…「マリー・アントワネットの遺児たち」はどうなったのか – Rinto~凛と~