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南アフリカの合法的人種差別「アパルトヘイト」とは?背景や内容をを元予備校講師が解説

今から四半世紀以上前、南アフリカでは公然と人種による差別が行われていました。政府による人種隔離政策、アパルトヘイト。白人の支配者層がその他の有色人種を差別する規定が合法的にまかり通ります。特に、黒人に対する差別は徹底していて、厳格な差別が実施されました。今回は南アフリカで行われていたアパルトヘイトの背景や内容、反アパルトヘイト運動などについて、元予備校講師がわかりやすく解説します。

南アフリカの植民地化

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大航海時代が始まると、ヨーロッパ人たちは世界各地に船を出して探検しました。ポルトガル人はアフリカ最南端の喜望峰に到達しインド航路を開きます。その後、喜望峰はオランダが所有しケープ植民地が成立しました。19世紀、ナポレオン戦争後の戦後処理で、ケープ植民地はイギリス領となります。オランダ系の白人は北に移住し3つの共和国を新たに建国しました。イギリスは南アフリカ戦争をおこない、オランダ系3共和国を併合します。

喜望峰の発見とケープ植民地

大航海時代、ポルトガルはアフリカ大陸の南端を目指して次々と探検船を繰り出していました。1488年、ポルトガル人のバルトロメオ=ディアスはアフリカ最南端の喜望峰に到達します。ディアスは付近の天候が荒れることから「嵐の岬」と命名しましたが、ポルトガル王マヌエル2世は香辛料ルートの開拓につながる岬であることから喜望峰と命名しました。

1652年、オランダ東インド会社リーベックは東アジア航路の中継地として喜望峰の重要性に着目。オランダ人たちは喜望峰周辺に「ケープ植民地」をつくります。オランダ系の植民者たちは周辺に住んでいたコイコイ人などを追い払い、農業経営などを行いました。

ケープ植民地にはオランダ系移民やフランスのユグノー、ドイツ系のプロテスタントなどが入植してきます。彼らはブール人、もしくはボーア人と呼ばれるようになりました。ボーア人の話す言葉はアフリカーンス語と名付けられます。

イギリスのケープ植民地領有とボーア人が建国した3共和国

18世紀末、ケープ植民地周辺で金やダイヤモンドが発見されると、イギリスがケープ植民地に目を付けました。19世紀初めにナポレオン戦争が起きると、イギリスのベレスフォード将軍はケープ植民地の中心都市であるケープタウンを占領します。ナポレオン戦争後の講和条約で、ケープ植民地は正式にイギリスに譲渡されました

イギリス人は英語を理解しないオランダ系のボーア人たちを格下に扱います。ボーア人たちはイギリス支配が及んでいない北東部へと移動を開始しました。これをグレートトレックといいます。

ボーア人たちは北東部に住んでいた黒人のズールー人やスワジ人などの先住民と戦いながら支配領域を拡大。ナタール共和国オレンジ自由国トランスヴァール共和国を建国します。

南アフリカ戦争

1877年、オレンジ自由国でダイヤモンド鉱が発見されるとイギリスはボーア人の3共和国をケープ植民地に編入しようとはかります。1877年、イギリスはトランスヴァール共和国の併合を強行しました。

しかし、ボーア人たちはイギリスの支配に激しく抵抗。1881年にイギリス軍は大敗を喫してしまいました。その結果、イギリスはトランスヴァール、オレンジなどと講和せざるを得なくなります。

1886年、今度はトランスヴァール共和国で金鉱が発見されました。するとイギリスは再び両共和国の併合を画策。イギリスの植民地大臣のジョゼフ=チェンバレンはトランスヴァール、オレンジ両共和国に派兵したため、再び戦争が始まります。

トランスヴァール共和国はオレンジ自由国と同盟し、イギリス軍に激しく抵抗。イギリスの予想をはるかに上回る2年半もの戦いとなりました。1902年、南アフリカ戦争はイギリスの勝利に終わり、トランスヴァール共和国とオレンジ自由国はイギリスに併合されます。

アパルトヘイトの始まりと国際連合の対応

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1910年、イギリス帝国内の自治領として南アフリカ連邦が成立しました。南アフリカの支配者層はイギリス人とボーア人たちです。彼らはのちにアパルトヘイトとよばれる徹底した人種隔離政策を実行しました。有色人種たちはさまざまな面で白人と隔離され、基本的人権を抑圧された状態となります。国際社会はアパルトヘイトを撤廃するよう南アフリカ政府に働きかけますが、状況は変わりませんでした。

白人中心の南アフリカ連邦

南アフリカ戦争に勝利したイギリスは、ナタール、トランスヴァール、オレンジをケープ植民地に併合しました。1910年、これら4つの州からなる南アフリカ連邦が成立しました。

南アフリカ連邦はイギリス帝国内の自治領です。南アフリカ連邦の支配者層はイギリス人やボーア人といった白人でした。彼らは農場主として先住民である黒人たちを農場労働力などとして使役します。

また、白人による他の有色人種たちへの差別もはじまりました。1911年、白人労働者を保護するために鉱山労働法が制定。この法律は南アフリカでの最初の人種主義法であり、その後も差別的な立法が相次ぎます。

1931年、ウエストミンスター憲章が採択され、南アフリカ連邦は外交権を持つイギリスと同格の国となりました。

アパルトヘイトの本格的な実施

アパルトヘイトとは、ボーア人たちの言葉であるアフリカーンス語で「隔離」を意味する言葉です。白人たちがみずからの権益を守るため、黒人をはじめとする有色人種を差別しました。

白人たちは黒人などの有色人種を労働力として使役するいっぽう、合法的な差別制度を作り上げます。本格的にシステム化されたのはボーア人や白人貧困層を支持基盤とする国民党が政権を握った1948年以降でした。

国民党の政府は南アフリカに居住するすべての人を白人、有色人種(カラード)、インド人、アフリカ人に区分します。そして、異なる人種間での結婚や性交渉を禁止しました。さらに、人種ごとに居住地域を厳しく制限。公共施設や海水浴場、公衆トイレ、教会、映画館、学校、列車などあらゆる場所で「ヨーロッパ人専用」「非ヨーロッパ人専用」などといった区分を徹底します。

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