アパルトヘイトへの国際連合の対応
あからさまな人種隔離政策に対し、国際社会は南アフリカ政府を厳しく非難します。1950年代、国際連合は総会の場で国際連合憲章の原則に従ってアパルトヘイト政策を放棄するよう南アフリカ政府に繰り返し訴えました。
1962年、国際連合は「国連反アパルトヘイト特別委員会」を設置します。委員会は南アフリカで行われている人種差別的な政策の撤廃を目的としました。さらに、1971年に国連は南アフリカとのスポーツ交流のボイコットを加盟各国によびかけます。
1973年には「アパルトヘイト犯罪の抑圧及び処罰に関する国際条約」が制定されました。1985年、南アフリカ政府が非常事態を宣言しアパルトヘイトをさらに強めたことに対して、国連安全保障理事会は南アフリカに対して経済制裁を実施します。
反アパルトヘイトの動きとアパルトヘイト撤廃
国連をはじめ、国際社会がアパルチヘイトに対して強く非難しても南アフリカ政府はアパルトヘイト止めようとはしませんでした。国民党によるアパルトヘイト強行に対抗し、アフリカ人たち中心のアフリカ民族会議は反対運動を起こします。指導者マンデラは27年もの間、獄中生活を強いられました。アパルトヘイト廃止後、マンデラは大統領となり南アフリカの民族融和を訴えます。
ANCの活動と南アフリカ政府による弾圧
1960年代、南アフリカの国民党政権は強固なアパルトヘイト政策を実施し、人種差別を継続します。南アフリカ国内では民族の平等を求めるアフリカ民族会議(ANC)によるゲリラ闘争が行われました。
アフリカ民族会議は1921年に結成され、当初は非暴力主義をとっていましたが、1948年の国民党による人種差別の強化に対抗するため武力闘争へと路線変更します。のちに大統領となるマンデラもアフリカ民族会議の一員でした。
1960年、ヨハネスブルグ近郊のシャープビルで、アパルトヘイトに対する抗議運動を起こし警察署前に集結した5,000から7,000の群衆に対し、警察官が発砲。69人が死亡しました。この事件をシャープビル虐殺事件といいます。
こうした差別的な事件に対し、イギリスが南アフリカ政府を非難したことから、南アフリカはイギリス連邦を離脱。国名を南アフリカ共和国と変更します。こうした非難にもかかわらず。南アフリカ政府は反対運動を弾圧しながら、アパルトヘイトを継続しました。
アパルトヘイトの撤廃
1970年代後半、反アパルトヘイト運動の指導者スティーヴ=ピコが拷問の末、死亡すると国際社会の南アフリカへの批判が更に高まります。
1980年、隣国で南アフリカと同じ白人独裁政権が政治を行っていたローデシアで自由選挙が実施。黒人が多数を占める新政権が誕生しました。新政権は国号をローデシアからジンバブエに変更します。この結果、南アフリカの友好国が消滅し、孤立が更に深まりました。
1984年、黒人を除く、カラードとインド人に選挙権が与えられますが混乱は解消しません。1987年には、50万人規模のゼネストが発生し、南アフリカ経済はマヒ状態に陥ります。国際社会からの経済制裁やゼネスト解消のため、実業界からもアパルトヘイト撤廃の声が上がりました。
1990年、デクラーク大統領は反アパルトヘイト運動で逮捕され、終身刑にされていたマンデラを解放。アパルトヘイト関連法の廃止やANCの合法化などを約束します。半世紀にわたったアパルトヘイトは、ようやく撤廃されました。
マンデラ政権の成立
1991年、マンデラはアフリカ民族会議の議長に就任。デクラーク大統領とともにアパルトヘイトの是正に努めました。そのことが評価され、1993年にマンデラとデクラークはノーベル平和賞を受賞します。
1994年、南アフリカで実施された総選挙によりアフリカ民族会議が第一党となりました。マンデラは大統領に選出されます。マンデラは人種間の平等や政治的な平等を目指しました。
マンデラは白人勢力を排除せず、政権に取り込みます。その理由は、マンデラの理想が人種間の融合を図ることにあったからでした。1995年に開催されたラグビーワールドカップ南アフリカ大会で人種が入り混じった南アフリカチームが優勝。アパルトヘイト撤廃後の南アフリカを象徴するものとされました。
マンデラは長年の獄中生活で体調を崩していたこともあり、1999年に大統領を退き、政界を引退します。
アパルトヘイトが撤廃されても多くの課題を抱える南アフリカ共和国
南アフリカ共和国は資源が豊富なアフリカ諸国の中でも豊かな国です。しかし、アパルトヘイト撤廃後も多くの黒人たちは貧困状態に置かれたままでした。白人との経済格差はなかなか埋まらず、黒人の若者の失業率は30%近くに達します。マンデラが目指した「虹の国」になるには白人と黒人の経済格差是正が必要不可欠ですね。