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世界遺産「ペトラ遺跡」とナバテア王国の歴史を元予備校講師がわかりやすく解説

1989年、総指揮ジョージ=ルーカス、監督スティーヴン=スピルバーグ、主演ハリソン=フォードとショーン=コネリーのアメリカ映画といえば、なんでしょうか。答えは、『インディジョーンズ 最後の聖戦』。この映画のクライマックスで聖杯が置かれている遺跡こそ、今回紹介する「ペトラ遺跡」です。ペトラ遺跡とはどのようなものなのでしょうか。ペトラを都としたナバテア王国の歴史とともに元予備校講師がご紹介します。

ペトラの地理

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ペトラは現在のヨルダンにある遺跡です。ペトラを含むヨルダン一帯はとても乾燥した気候で、砂漠が広がり寒暖差の激しい地域。そんな厳しい環境でもペトラが繁栄したのは、ペトラがアラビア半島の香料貿易のルート上にあった都市だったからでした。ペトラの気候風土や繁栄の礎となった香料貿易についてまとめます。

ペトラの気候・風土

ペトラを含むヨルダンやその周辺は降水量に乏しい乾燥地帯です。特に、ペトラの周辺は雨がほとんど降らない砂漠地帯でした。砂漠気候の特徴は1日の気温差がとても大きいこと。夏の最高気温は50度に達する日もありますが、夜には20度近くまで気温が下がります。

雨は冬のごく限られた期間に、ほんの少し降る程度。基本的には年中を通して乾燥した気候ですね。降水量が少ないペトラ周辺は農耕に適さない土地といってもよいでしょう。

人々は、周辺にある水源地から水道管を通して水を得ていました。そのため、降水量がほとんどないペトラに都市をつくることができたのです。生活する上ではとても大変な気候ですが、観光で訪れる場所としては好条件。ほとんど、晴天なので雨を気にせずペトラ遺跡を見学することができますよ。

交通の要衝として栄えた隊商都市ペトラ

砂漠の中にあり、生活に不便なペトラになぜ、古代遺跡を残すような大きな都市が作られたのでしょうか。それは、ペトラが交易ルート上に存在していたからでした。

ペトラを中心として考えると、西に地中海沿岸のガザ、北に古代から続く中東の中心都市であるシリアのダマスカス、南に紅海の重要な港であったアカバがあります。ペトラは貿易品を運ぶキャラバンの中継地点として繁栄しました。

中国から運ばれた絹、東南アジアやアラビア半島南部から運ばれた香料、香辛料などを積んだキャラバンがペトラでつかの間の休息をとりました。ペトラは西のローマ帝国と東の中国・インドを結ぶシルクロードの一翼を担っていたのです。

ペトラを支配したナバテア人はキャラバンに宿と保護を与える見返りに税を取りました。こうして、ペトラは大都市に成長したのです。

ペトラを支えた香料貿易

アラビア半島南西端にあるイエメンは紅海とインド洋を結ぶ重要地点でした。旧約聖書に登場するシヴァの女王はイエメン周辺を支配したといわれます。シヴァの女王はヘブライ王ソロモンに黄金や香料、宝石などを贈りました。

イエメンを代表する香料が乳香です。乳香はカンラン科の植物から得られる樹脂で、お香や香水の原料として珍重されました。黄色透明で火であぶると芳香を放ちます。聖書ではイエスの誕生を祝った東方三博士が貢物として持参したほどの貴重品でした。

もう一つの香料は没薬。没薬も東方三博士の貢物の一つで、香料としての利用のほかにミイラ製造の際の防腐剤としても用いられました。アラビア半島南部や東アフリカで産出される乳香・没薬はペトラを通ってローマ帝国などの西方世界に持ち込まれます。

ペトラを都としたナバテア王国の歴史

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シルクロードの中継都市として、また、香料貿易の中継都市としてペトラは大いに繁栄しました。この財力をもとにナバテア人は勢力を拡大します。一方、ペトラの富は周辺諸国をひきつけ、支配下に置こうと大国が動きました。ヘレニズム三王国の一つであるセレウコス朝や現在のイスラエル周辺を支配したユダヤ人のハスモン朝、さらに西方の覇権国家であるローマ帝国までペトラに進出します。最終的にペトラはローマ帝国の属州に編入されました。

ナバテア人とは

ナバテア人はペトラ周辺で活動していた遊牧民でした。紀元前1200年頃からペトラに居住していたエドム人たちを南に追いやったナバテア人はペトラを都とした王国を築きます。

ナバテア人は文字を持っていましたが、彼らの歴史を書いた書物は見つかっていません。そのため、ナバテア人のことはギリシア人や他の周辺諸民族の記録からたどるしかありませんでした。紀元前4世紀、ギリシア人が残した記録がナバテア人についての最古の記録です。

ナバテア人たち馬を導入し、騎馬部隊を編成。シルクロードやアラビアからやってくるキャラバンたちの護衛をおこない、通商路の安全をはかりました。

ギリシア系の諸王朝やハスモン朝との争い

アレクサンドロス大王の死後、配下の将軍のたちは大王の後継者の座をめぐって激しく争いました。有力者の一人で、マケドニア王となるアンティゴノスは隊商路を支配し富を蓄積したナバテア人に目を付け、ナバテア人から富を略奪しようとします。しかし、ナバテア人はアンティゴノスの軍を三度にわたって撃破。独立を守りました。

紀元前168年、アレタス1世はペトラを都としたナバテア王国を建国します。アンティゴノスや後に旧ペルシア帝国領を引き継ぐ形で成立したセレウコス朝などとは緊張関係が続きますが、ユダヤ人のハスモン朝とは友好関係を保ちました。

しかし、ハスモン朝はナバテア王国の周辺にまで勢力を拡大。交易路を守るため、ナバテア王オボタス1世はハスモン朝と戦い勝利します。その後、ナバテア王国とハスモン朝の戦いに乗じて攻め寄せたセレウコス朝のアンティオコス12世をナバテア王国が討ち取り、勢力を拡大しました。

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