そもそも普仏戦争とは?
普仏戦争とは1870年から1871年にかけてフランスとドイツの間で起こった戦争のことです。
当時北ドイツ連邦の盟主となっていたプロイセン王国は宣戦布告してきたフランスに対して連戦連勝。最終的にはパリを陥落させてしまいフランスに圧倒的な勝利を収めることになりました。
その後フランスは第二帝政が崩壊。ドイツでは南ドイツ諸国をも併合し、ヴェルサイユ宮殿にてドイツ統一がなされました。
普仏戦争の原因とドイツの統一の機運
元々ヨーロッパの大国といえばフランス。フランスではこの頃ナポレオンの甥であるナポレオン3世が帝政を展開していました。しかし、お隣の国ではプロイセン王国を中心とした統一国家を作ろうという動きが活発化していったのでした。
最初はそんなプロイセン王国によるドイツ統一の機運とフランスの動向についてみていきましょう。
ドイツ統一の序章
昔々、今のドイツ共和国には統一の国家はなく神聖ローマ帝国という大きな枠組みの中で諸侯たちが点々と領地を持っている状態でした。
しかし、1648年のウェストファリア条約によってそんな諸侯たちが治めている領土にも主権が認められ実質的にドイツは300もの領地が点々とばらけている寄せ集めの状態となっていました。
最終的にはナポレオン戦争によってドイツ国内には35の君主国と4つの自由市に別れたドイツ連邦が成立。統一国家への機運が高まっていきました。
その中でにわかに勢力を伸ばしていたのがプロイセン王国。この国はフリードリヒ2世の代から軍拡や近代化政策を行い始め、ナポレオン戦争の後ではラインランド地域を獲得しました。
そんなプロイセン王国がドイツ統一をするきっかけとなったのが普墺戦争。この頃ドイツはオーストリア帝国かプロイセン王国かのどちらかが主導権を握るのがが注目されていましたが、この戦争によってドイツ統一の主導権はプロイセン王国のものとなったのでした。
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北ドイツ連邦の成立
こうして普墺戦争に勝利したプロイセン王国。この普墺戦争における勝利の意義はとても大切でこの戦争によってこれまで神聖ローマ帝国からドイツ連邦の盟主であったハプスブルク家のオーストリア帝国からドイツ連邦の支配権をプロイセン王国が受け継ぐという形になったのです。
こうしてドイツ統一の権限をオーストリアから奪い取ったプロイセン王国。この普墺戦争によってビスマルクは普墺戦争によって解体されたドイツ連邦に変わる新しい連邦政府北ドイツ連邦を1867年に成立。日本では大政奉還が行われた年にドイツではドイツ統一の第一歩を歩み出すことになったのでした。
しかし、まだこの時には南ドイツ諸国は連邦内には組み込まれてせん。これには実は訳があってこの当時ドイツは北側はプロテスタント、南にはカトリックを信仰している人が非常に多かったのです。まだこの時でも宗教というものは大切なもの。同じキリスト教でもカトリックとプロテスタントが同じ国にいたら揉めることは火を見るよりも明らかです。
そこでビスマルクは一旦プロテスタントが圧倒的に多い北ドイツの国を作って後々南ドイツ諸国を組み込んで行こうと考えたのでした。
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スペイン継承問題とエムス電報事件
こうしてプロイセン王国は南ドイツ諸国を北ドイツ連邦にまとめて統一国家にしていこうという計画が始まりましたが、この当時南ドイツを狙っていたのはプロイセンだけではありませんでした。次は普仏戦争の直接の原因となったスペイン継承問題とエムス電報事件について見ていきましょう。