ドイツフランスプロセイン王国ヨーロッパの歴史

フランスとドイツの関係を決定づけた「普仏戦争」とは?わかりやすく解説

参謀幕僚制の確立

プロイセン王国の軍人である大モルトケはナポレオン1世の頃に敗れたことを教訓にしてどのようにすれば効率的に行動できるのかということを常日頃から考えていました。

そこで思いついたのが参謀本部の設置。参謀というのは簡単に言えば指揮官のサポート役なんですが、プロイセンはこの参謀を独立した専門職として参謀が考えた作戦を指揮官に提示するというシステムを確立。こうすることによって指揮官の独断で動くことを防ぎ、効率的でなおかつ大規模な作戦が組めるようになっていったのです。

国民皆兵の確立と電信・鉄道のフル活用

プロイセンが強かった理由の一つに国民皆兵が徹底されていたことがありました。

当時、フランスの人口は3800万人に対し、ドイツ連邦は3200万と人口では劣っていましたが、ビスマルクの鉄血演説のように国民の男子全員が必要に応じて動員する準備が整っており、いくらでも兵力を補填することができたのです。その例として普仏戦争の時ドイツ軍は46万人の兵員を悠々と送れたのに対し、フランス軍はわずか27万人。これだけでもだいたい2倍の差が生まれてしまっていますね。

さらにドイツ軍はこんな戦争があろうかと戦争が起こる前から鉄道網と電信を整備。そのため迅速に兵員を前線に送り込むこともできたのでした。

フランスの外交的失敗

普仏戦争のフランスの敗因の一つにフランスが孤立してしまったことにあると思います。

まず、普仏戦争自体がエムス電報事件の結果フランス側がドイツ連邦に宣戦布告してきたという事実があるため、ドイツ連邦は南ドイツ諸国とかねてより結んでいた参戦理由を取り付け、さらにナショナリズムを刺激したことにより南ドイツ諸国がドイツ連邦側についてしまいました。

さらにフランスはこの頃メキシコの統治の失敗でハプスブルク家との関係が悪化したことにより本来ならフランス側についても良いであろうオーストリアが中立を保ち、さらにイギリスやロシア帝国もビスマルクの巧みな外交戦術によって中立という形となります。

このようにフランス側についてくれる国がなかったことがフランスのの敗北の一つの原因となったのでした。

普仏戦争のその後

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By User:52 Pickup – Based on map data of the IEG-Maps project (Andreas Kunz, B. Johnen and Joachim Robert Moeschl: University of Mainz) – http://www.ieg-maps.uni-mainz.de, CC 表示-継承 2.5, Link

普仏戦争の後、ヨーロッパの構図は大きく変わり新しい時代の幕開けとなっていくことになります。

悲願のドイツ統一

ビスマルクはかねてよりドイツ統一に反対的であったカトリックの国であるバイエルンなどの南ドイツ諸国と統一するためにドイツ人というナショナリズムを使ってドイツ統一を目論んでいました。

この作戦は大当たりで普仏戦争の大勝利に湧き上がったドイツ国内では南ドイツ諸国を併合しようとする動きがどんどん加熱していき、ヴィルヘルム1世が反対したものの、最終的にはビスマルクが後押しをしたこともありヴィルヘルム1世は当時占領していたヴェルサイユ宮殿の鏡の間にてドイツ皇帝に就任。

南ドイツ諸国はドイツ帝国に併合され、遂に長年の悲願であったドイツ統一が成し遂げられたのでした。

フランクフルト講和条約

パリを占領されてもはや勝ち目のなくなったフランスは遂に降伏。5月にフランクフルトにて講和条約が締結されることとなりました。

ビスマルクは普墺戦争の講和条約とは打って変わって強気な姿勢をとるようになり、アルザスロレーヌ地方の割譲を始め、賠償金の支払い50億フランの支払いが決定。

もちろんフランス国民はこんな講和条約を締結することは反対で一時期はパリコミューンという世界初の労働者政権が誕生しましたが最終的に鎮圧。第三次共和政が開始されフランスは臥薪嘗胆の面持ちで第一次世界大戦まで耐え忍ぶのでした。

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