青年、諸葛亮が劉備に天下三分の計を説く
三国志に諸葛亮が初登場するのは20代のころ。壮年を過ぎた劉備と若き気鋭の賢者諸葛亮が対面する三顧の礼の場面です。傭兵隊長として各地を渡り歩く劉備にとって、参謀役ともいえる知識人が側近にいないことは何かと不利をもたらしました。諸葛亮の劉備軍への参加は、劉備軍団を単なる傭兵集団から秩序だった行政組織を持つ群雄へと飛躍させるきっかけとなります。
諸葛亮の生い立ち
姓は諸葛(しょかつ)、名は亮(りょう)、字(あざな)は孔明(こうめい)。名は軽々しく呼ぶことは無礼とされ、名を呼ぶのは親や主君など目上の人だけでした。そのため、普段は字で呼ばれました。字は成人男子が実の名以外に自らつけた名のことです。当時の人の多くは孔明、または、諸葛孔明とよぶことが多かったでしょう。しかし、今回は、歴史上の人物を扱うという観点から、諸葛亮の呼び名で統一します。
本籍地は徐州ですが、正確な出生場所はわかりません。父は幼いころに死去していたため、諸葛亮は親戚の諸葛玄のもとに身を寄せました。諸葛玄が民衆反乱で殺害されると比較的政情が穏やかだった荊州に移住。晴耕雨読の生活を送っていたといいます。
諸葛亮が地元の名士である黄承彦の娘と結婚したのは荊州移住後のこと。黄承彦は娘を器量はよくないが、才能は諸葛亮と結婚するに値すると評していたといいます。
三顧の礼と水魚の交わり
各地を渡り歩いていた傭兵隊長の劉備は曹操との戦いに敗れ、荊州を支配していた劉表のもとに逃れました。劉表は劉備に新野城を与えて曹操の荊州侵攻に備えます。
このころ、劉備に仕えていた徐庶(じょしょ)は、優秀な人物として諸葛亮のことを劉備に話しました。劉備は連れてくるよう徐庶に頼みますが、徐庶は、諸葛亮は呼び出しに応じるような人物ではなく、諸葛亮を配下に加えたいなら劉備が自ら会う必要があるといいます。
劉備は徐庶のアドバイスに従い三度にわたって諸葛亮を訪ねました。目上の者が目下の者のもとを訪れ、最高級の礼を尽くすことを三顧の礼といいますが、三顧の礼の語源は劉備が諸葛亮に最大限の敬意を払って三度も訪ねたことに由来します。
劉備の諸葛亮に対するへり下りように、昔から劉備を支えてきた関羽や張飛は不満を覚えますが、劉備は自分にとって諸葛亮がいてくれるのは魚に水があるようなもの。そのくらい大事なのだから不満は口にするなといいました。このエピソードから親しく交わる様子を水魚の交わりというようになりました。
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天下三分の計(隆中策)の献策
劉備が諸葛亮を隆中にある彼の家に訪ねた時、諸葛亮は劉備に今後の見通しとなる大戦略を説きました。
諸葛亮は言います。「華北を支配し、中国の中心部である中原を支配した曹操の力は強大で、すぐに滅ぼすことは不可能でしょう。曹操に対抗する力を今現在持っているのは呉の孫権です。孫権と手を結ぶことで曹操に対抗しましょう。そのためには、劉備軍の基盤として荊州と西にある益州(のちの蜀)が必要です。荊州と益州を手に入れたら、中原にいる曹操に決戦を挑みましょう」。
諸葛亮の意図は、漢の復興という劉備の目的を達成するため、一時的に天下を三分しバランスを取り、その後、曹操を倒すというものでした。諸葛亮のアイデアを実現するためには、呉の孫権と同盟を組んで曹操と戦わねばなりません。
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諸葛亮、劉備の補佐役として活躍
呉との同盟に成功し、赤壁で曹操を打ち破ったことで諸葛亮の天下三分は実現に一歩近づきます。劉備は諸葛亮の補佐のもと、荊州の南半分や西方の益州を平定することに成功。しかし、荊州の守備を託した関羽が孫権の幕僚、呂蒙の策によって殺害されると、劉備は義弟の死に怒り呉との決戦に向かいました。劉備が呉との決戦に敗れたのち、諸葛亮は後事を託されます。
赤壁の勝利と南荊州平定
劉表の死後、荊州は跡継ぎをめぐる混乱のさなかにありました。呉の孫権は弔問の名目で魯粛を派遣。荊州の情勢を探らせます。諸葛亮は魯粛と接触。ともに、曹操と戦うよう孫権との同盟交渉にあたりました。
正史には記されていませんが、三国志演義では諸葛亮が呉の重臣たちと舌戦を繰り広げるシーンが描かれていますが、史実にはないフィクションだといわれます。実際に赤壁の戦いの中心となったのは周瑜や黄蓋といった呉の武将たちでした。
赤壁で大破した曹操が北に退いたとき、荊州に一瞬の軍事的空白が生まれます。劉備軍はこの間隙に乗じて南荊州を平定。諸葛亮は軍師中郎将に任じられ、南荊州の統治にあたります。こうして、劉備軍は念願の安定した根拠地を手に入れ益州攻略の準備を整えることができました。