- 1. 伊達政宗の母として
- 1-1. 最上氏に生まれた「奥羽の鬼姫」
- 1-2. 伊達輝宗に嫁ぎ、政宗を産む
- 1-3. 実家と嫁ぎ先の争い
- 1-4. 兄と夫の争いを止める
- 2. 成長した息子・政宗との関わり
- 2-1. 夫の死、そして息子に疑念を抱く?
- 2-2. またもや戦場に輿で乗り付ける
- 2-3. 伊達と最上の間に立ち、交渉役をつとめる
- 2-4. 政宗を毒殺しようとした?
- 2-5. 毒殺未遂事件の真相
- 3. 突然の出奔と帰還、息子との日々
- 3-1. 出奔の理由は?
- 3-2. 兄のピンチに援護射撃
- 3-3. 筆マメにもほどがある?兄のために必死の義姫
- 3-4. やはり政宗との仲は悪くなかった?
- 3-5. 政宗のいる仙台城へ政宗のいる仙台城へ
- 3-6. 晩年の義姫と政宗の気づかい
- 義姫は鬼母ではなく、実家と嫁ぎ先を案じた情の深い女性だった
この記事の目次
1. 伊達政宗の母として
義姫は、出羽(でわ/山形県・秋田県)の最上(もがみ)氏から政略結婚で伊達氏に嫁ぎ、そこで政宗などの子供たちをもうけました。しかし、実家の最上氏と嫁ぎ先の伊達氏には争いが絶えず、義姫は心をいためることになります。ただ、彼女はそこで行動を起こしたのです。彼女の力によって避けられた争いとはどんなものだったのか、見ていきましょう。
1-1. 最上氏に生まれた「奥羽の鬼姫」
義姫が生まれたのは天文17(1547/1548)年と言われています。出羽の戦国武将・最上義守(もがみよしもり)の娘でした。兄は「羽州(うしゅう)の狐」との異名を持ち、策謀に長けた武将だった最上義光(もがみよしあき)です。2歳違いのこの兄妹はとても仲が良く、義姫が嫁いだ後も頻繁に手紙をやり取りしていたそうですよ。
義姫は幼い頃から勝気で男勝りな性格だったようです。ある時、父と兄が外交について話し合っているところに、彼女も同席していました。すると、おそらく兄・義光が消極的なことでも言ったのでしょう。義姫は突如激昂し、「なんと不甲斐無い!」と兄の頬に平手打ちを食らわせたというのです。そんな娘を見た父・義守は、「この子が男だったなら、きっとひとかどの武将になっていただろうに」とため息をついたとか。
こんな逸話も伝わるほどで、義姫は「奥羽の鬼姫」と呼ばれることもあったそうですよ。
1-2. 伊達輝宗に嫁ぎ、政宗を産む
永禄7(1564)年、義姫は、米沢を本拠地とする伊達輝宗(だててるむね)に嫁ぎました。
当時の伊達氏は、お家騒動となる天文の乱(てんぶんのらん)により、輝宗の父・晴宗(はるむね)と祖父・稙宗(たねむね)が争ったため家中が分裂するという非常事態を経験し、それがようやく収まってきたところでした。しかし、最上氏は、乱に勝利した晴宗側ではなく敗北した稙宗方に加担しており、晴宗の跡を受けて家督を継いだ輝宗にとっては対立関係にあったのです。そこに政略結婚の駒として送り込まれた義姫の立場が難しいものだったことは、おわかりいただけるかと思います。
とはいえ、義姫と輝宗の仲は悪くなかったようで、二男二女に恵まれました。永禄10(1567)年に生まれた長男・梵天丸(ぼんてんまる)が、後の政宗となります。
1-3. 実家と嫁ぎ先の争い
兄・最上義光と仲が良い義姫でしたが、その実家・最上家では、兄・義光と父・義守が争う状況となり、天正最上の乱(てんしょうもがみのらん)が起きてしまい、心を痛めていました。しかも、ここに夫・輝宗が介入し、父・義守方についたのです。なんとかこの乱は収まりましたが、伊達と最上の仲が決して良好とは言えないことは、彼女をたびたび悩ませることとなります。
しかし、義姫は男たちの争いにただ心を痛めるだけのか弱い女性ではありませんでした。天正6(1578)年、最上氏の縁戚にありながら、最上義光と対立した武将・上山満兼(かみのやまみつかね)と夫・輝宗が連合し、義光のところに攻め込むという事態が発生しました。
夫と兄の争いは何としても止めなくてはいけない…と思った義姫は、何と、戦場に輿で乗り込んだのです。
1-4. 兄と夫の争いを止める
驚く武将たちを尻目に、義姫は輿から降り立つと、夫と兄に向かって「義兄弟で戦とは何たることでしょうか」と語りかけます。そして、「戦を止めて兵を引かないとおっしゃるなら、どうぞこの場で私をお切りください」と言い放ったのでした。
これには、輝宗も義光もびっくり。同時に、両者とも戦をやめるきっかけを探していたところだったため、義姫の言葉にこれ幸いと撤兵することになり、争いは避けられたのでした。
2. 成長した息子・政宗との関わり
義姫が生んだ長男・伊達政宗は、幼いころに疱瘡を患い、右目を失明するなど容姿にコンプレックスを抱くようになってしまいます。ただ、大人になるにつれそれが改善され、武将として立派に成長していきました。しかし、一説には、義姫と政宗の関係について、毒殺未遂説がささやかれるなど、何とも不穏な噂が付きまといます。真相はどうだったのか、ここで見ていきましょう。
2-1. 夫の死、そして息子に疑念を抱く?
政宗は幼少期に疱瘡を患って生死の境をさまよい、義姫は気が気ではありませんでした。なんとか生還することができたものの、右目を失明した政宗は、自分の容姿にコンプレックスを覚え、明るさを失ってしまったとも言われています。とはいえ、政宗の側近・片倉景綱(かたくらかげつな)の存在もあり、政宗はやがて自信を取り戻し、父・輝宗の期待に応え、立派に成長していきました。
そして天正12(1584)年、政宗は家督を継ぎます。しかしその直後、輝宗が二本松義継(にほんまつよしつぐ)に拉致され、政宗がやむなく敵ごと輝宗を討つという事件が発生し、義姫は未亡人となってしまいました。
この悲劇に際しては諸説あり、政宗が意図的に輝宗を殺したという説もあります。義姫もまた、その説と同様、政宗による謀略ではないかと疑ったとも言われていますね。そして、政宗は義姫の実家・最上氏やそれに加担する一派との争いに身を投じ、義姫の気が休まらない状況を続けていくことになったのでした。
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