3-2. 兄のピンチに援護射撃
慶長5(1600)年、関ヶ原の戦いが起きた際、東北では慶長出羽合戦(けいちょうでわかっせん)が勃発しました。東北でも東軍と西軍に分かれて戦ったわけです。義姫の兄・最上義光が東軍勢力の中心となり、西軍の上杉景勝(うえすぎかげかつ)と激突することになりました。
しかし、義光は城を包囲されるなど大ピンチに陥ってしまいます。そこで政宗に援軍を頼んだのですが、この時義姫は、兄のピンチにいてもたってもいられなかったのでしょう。矢のような手紙攻勢を政宗陣営に仕掛けたのでした。
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3-3. 筆マメにもほどがある?兄のために必死の義姫
政宗はいちおう東軍に属していましたが、戦のメインはもっぱら義光ら最上勢で、伊達勢はほとんど参加していませんでした。これでは本当に義光がやられてしまいます。そこで、実家に帰ったままの義姫は、政宗方の武将で政宗の叔父でもある留守政景(るすまさかげ)に対し、手紙を送りました。その勢いが凄まじいことがわかるので、少々ご紹介しましょう。
「とにかく、早く、すぐ来てください」と書き送ったのが9月20日の午前6時。そして翌日の午前4時には、「数をそろえてからと言ってないで、そろった者から来てくださいな。そうすれば兄も喜ぶはずですから」と、およそ手紙を書くような時間とは思えない時間に書いています。
3-4. やはり政宗との仲は悪くなかった?
義姫からの手紙がこんな様子なので、政景も政宗と義姫の間に挟まれて苦労したでしょうが、なんとか出兵することになります。そして最上勢も息を吹き返し、上杉勢を撤退させることに成功しました。
また、一説には、政宗に対し腹心の片倉景綱が「援軍を送る必要などなし。上杉が最上を滅ぼせば、我々が上杉を滅ぼして一気に二つの国が取れます」と言ったところ、政宗が「母上のためにも、最上を見捨てることはできない!」と言って援軍を派遣したとも言われています。これが本当ならば、政宗と義姫の間が悪い関係でなかったことになりますね。
上杉勢を追い払ったものの、すぐに伊達勢が撤収してしまっては、不測の事態に備えることができません。そこで義姫は再び政景に手紙を書き、「撤退するのはもう少し待ってほしい、あなたが残ってくれたら、きっと政宗からの覚えもめでたくなるはずですから」と、必死で伊達勢を引きとめたのです。手紙の端々には世間話めいたことも挟み込み、あの手この手の引きとめ工作でした。さすが、交渉人・義姫です。
3-5. 政宗のいる仙台城へ政宗のいる仙台城へ
慶長出羽合戦が終結すると、義姫は政宗に対し、実家から感謝の手紙を送りました。
しかし、最上氏では義光の後継者を巡り不穏な動きが出てきます。長男・義康(よしやす)が義光と不和となり、ついには自刃に追い込まれてしまうのです。そのことを後悔した義光はやがて体調を崩し、慶長19(1614)年にこの世を去ってしまいました。ただ、その後すぐに跡を継いだ息子も亡くなり、幼い跡継ぎのもとで藩内は混乱し、内紛が起きてしまいます。これが「最上騒動」というお家騒動ですが、この結果、最上氏は何と幕府によって領地を没収される改易処分となってしまったのです。
義姫は、兄の死の直後から「最上家は変わってしまった」と嘆いていました。いくら彼女が最上義光の妹だと言っても、伊達に嫁いだ身。首を突っ込むわけにもいかなかったのでしょう。
そして、最上氏の改易により行き場を無くしてしまった義姫は、結局、政宗のもとに戻ることになりました。これが元和9(1623)年のことで、彼女が出奔してから28年もの月日が流れていました。
ただ、政宗の庇護下での生活は10ヶ月ほどでした。この年のうちに義姫は亡くなったのです。
3-6. 晩年の義姫と政宗の気づかい
晩年の義姫は、目や足が不自由になっていたと伝わっています。しかし、政宗の正室・愛姫(めごひめ)に手作りの下げ袋を贈るなど、細やかな気遣いや愛情深さを垣間見せました。
政宗は、義姫の13回忌に際し、彼女の法名にちなんだ保春院(ほしゅんいん)という寺院を創建しています。位牌を政宗自ら作ったと言われており、やはり母子の間に大きな亀裂はなかった、もしくは修復されていたと考えられますね。
義姫は鬼母ではなく、実家と嫁ぎ先を案じた情の深い女性だった
義姫は、実家と嫁ぎ先との間に入る行動力を持ち、争いを調停した重要な存在でした。彼女の存在が、伊達氏と最上氏の大きな衝突が回避できた一大要因だと言えるでしょう。また、息子・政宗の毒殺説についても根拠は薄く、実は親子仲も割と円満だったということがわかってきました。となると、彼女は鬼母ではなく、常に実家と嫁ぎ先の行く末を案じた情の深い女性だったということになりますね。