幕末日本の歴史江戸時代

多くの維新の志士を育てた「吉田松陰」その実像をわかりやすく解説

3-2脱藩してまで行った東北への遊学

宮部鼎蔵らと東北への遊学をするため、藩からの過書(通行手形)の発行を待たずに出発。藩命を無視し、出発したことで脱藩になりました。脱藩は武士最大の罪で、藩きっての秀才から、藩きっての大罪人へ転落。兵学師範の席も失っています。

幕末の攘夷思想発祥の地である水戸を訪れ、白川、会津、新潟を見学し農民の過酷な暮らしぶりを目の当たりにしました。その後に訪れた佐渡では、囚徒や無頼の徒が働く地獄の佐渡金山を見学し、農民よりもっと過酷な環境を目にしています。見ることはできなかったようですが、津軽海峡を航行する外国船も見学に行きました。

東北の旅から江戸に帰った松陰は、亡命の罪により萩に送り返されました。士籍剥奪・世禄没収の命がくだり、士籍、家禄、先ほど触れました兵学師範の地位も剥奪されています。その上で自宅謹慎の命を受けました。

4.海外への憧れと密航と獄中生活

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どうしても外国に行きたい松陰は、ペリー来航で沸き立つ江戸に行きました。江戸で佐久間象山と相談の末、ロシア船への密航を企て長崎へと向かうも時既に遅し。出航した後で、ロシア行きは失敗に終わりました。安政元年(1854)3月5日に再度密航を企て、下田へ戻ります。

4-1乗っちゃいました黒船へ!すぐに降ろされ牢獄へ

金子重之助を伴い漁師の手漕舟にのって、ペリーのいる黒船へと向かったのです。やっとの思いで黒船に乗船するも、既に日米の条約は締結しており、松陰を乗せることはできませんでした。宝島を書いたスティーブンスンによると条約の項目の中に、“日本脱出を試みるものを助くべからず”との文言があったからだとか。ペリーは、「もう少し待てば自由に海外に行けるようになるから」と、優しく諭したようです。

その後下田の役人に引き取られました。長い間獄中で暮らすことになり、兼子は皮膚病を患い獄中死。松陰は6ヶ月小伝馬町の牢で過ごし、萩の野山獄預かりとなりました。野山獄での松陰は勉学を忘れず、他の囚人たちと勉強会をしたほど。囚人の心を掴んだのは、アメリカ船への密航に失敗した話にみんなが興味を引かれたからです。密航を一緒に企てた佐久間象山は、筆跡から関与を見破られ一時幽閉されるもすぐに放免になっています。

5.異彩を放つ松下村塾開塾

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野山獄を出て杉家に戻ることができた松陰は、もう武士に戻ることは考えられませんでした。近所の子供たちを集めて、寺子屋のような小さな私塾を開きました。おじの玉木文之進がはじめた松下村塾の再開です

5-1講義の評判からたくさんの人が集まる松下村塾

3畳ほどの小さな部屋に、近所の子供や親などに読み書きを教えることからはじめました。評判が評判を産み、将来ある若者が続々と集まって来たのです。部屋が小さくなり実家の納屋を改築するなど、講義を受ける部屋は全部合わせると18畳半。空間いっぱいに、人が集まるようになりました。

松陰は、塾生の個性を見抜くのが上手く、個々の能力を活かして勉強をさせることが上手でした。塾生の中には、初の内閣総理大臣になった「伊藤博文」がおり、彼は政治家になるだろうと言い当てていたとか。また、優等生の「久坂玄瑞」 や成績がなかなか上がらない「高杉晋作」もこの塾の卒業生です。高杉晋作には、久坂玄瑞に嫉妬心を抱かせることで、やる気を出させています。

山県有朋もここで学んだおり、門下生たちは近代日本の基礎づくりに貢献した人物ばかり。実に塾生は300人にも及んでいます。獄中でも決してめげることなく、むさぼるように本を読み他の囚人たちと勉学に励んだ彼だからこそ育てることができたのでしょう。国作りは人作りと信じて貫いた、人生に悔いなしといったところでしょう。

6.門下生も付いていけないほどの思想と行動力

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吉田松陰という人は、正しいと思ったことは死をも恐れずやり抜く人物でした。晩年は教育者としてしての人生を歩みますが、尊王攘夷論者として、痛烈な政治批判も続けていました。我慢も限界に達していた松陰は、過激な行動や思想を持つようになっており、塾生たちもついて行けないほどだったとか。

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