6-1藩に騙され怒りも最上級!再度獄中へ
明治維新の立役者で悪名高き井伊直弼たちの様子を見て、正義感の強い松陰は怒りに燃えていました。朝廷を取り締まる目的で京都に来た、老中間部詮勝の暗殺計画を声高らかに宣言したのです。長州藩は大慌て!「死をも恐れない松陰のこと、きっとやってのける。これはヤバイ!」といった具合でしょうか。長州藩は、こんなことされたら藩が取り潰しになりかねないと、松陰を思いとどまらす策を練りました。
ここで藩がやったのは、嘘をつくことだったのです。「藩主が井伊大老に進言しに行くから、落ち着いて少し状況を見ていてほしい。」と松陰を諭しました。話がうますぎる!井伊大老に進言なんてできるはずがないと、騙されたことに気付いた松陰は、更に怒りが爆発!「計画通りに、間部を討つ!」と宣言しました。もう止められないと、藩は野山獄に収監しました。
せっかく再開した松下村塾は閉鎖となり、門下生たちも流石について行けないと突き放しました。牢獄の中で、松陰は孤立無援の苦境に陥ったのです。幕府も藩も信頼できない今となっては、民間に頼るしかない。「草莽崛起の人をのぞむほか頼りなし」と唱えるようになりました。
6-2死刑に処せられる松陰
松陰は、江戸の小伝馬町の牢へ送られることとなりました。江戸にいた門下生の尾寺新之丞は、長州藩江戸屋敷に駐在している周布正之助に呼ばれました。そこで、明日の朝評定所で、松陰に死罪が言い渡されると聞かされました。
尾寺は、これを松陰に知らせるために、朝食を差し入れました。それは、頭付きのめざしと、胴と頭が離れためざしの2匹。これは、せめてものはなむけに、死罪が近いことを内々に知らせることだったのです。死罪を聞く寸前に松陰が詠んだ句は、「此の程に思ひ定めし出立は けふきくそこ嬉しかりける」でした。幕末という混乱期であり、長州藩も今回ばかりは松陰を守ることができませんでした。
安政6年(1859)10月27日に、江戸で斬首の刑になりました。この時呼んだ辞世の句は、「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置まし大和魂」でした。携わった死刑執行人は、「死刑囚の中でもこれだけ態度が立派な人物は見たことはない。」といったとか。「もう、死を持って悪政を正すしかない」と、松陰は感じていたのではないでしょうか。
7.常に世界を知りたいと思う心が、松陰の心を動かた
松陰の人生は、たった29年でしたが、波乱に満ちた生涯でした。常に向学心を持ち、世の中の変化と出来事を知りたいと旅に出ました。いつも自らを律し、どんな逆境にも屈しない強い心を持って生きぬいた人物です。彼が、若くして死ぬことがなければ、今とは違う日本の夜明けを迎えていたかもしれません。
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