ヨーロッパの歴史

初めての国際条約に繋がった「三十年戦争」とは?わかりやすく解説

ヨーロッパ中の王国が参加した

それまでのヨーロッパは、ローマ教皇が神聖ローマ帝国皇帝を指名し、その皇帝が各国の領主を王国の王として安堵するという封建社会になっていました。イングランドもフランスも、北欧諸国もその秩序下にあったのです。

しかし、三十年戦争は、そのような社会秩序を破壊して、各王国の独立した立場を確立した戦争となりました。

いつの間にかハプスブルグ王家とブルボン王家の覇権争いの様相に

特に、オーストリアのハプスブルク家とフランスのブルボン家は、隣国である上に同じゲルマン民族出身であるだけに、ヨーロッパ本土の覇権争いという様相を呈していました。両国の面子をかけた戦いになっていたのです。

初めての国際条約_ウエストファリア条約の成立

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長く続いた三十年戦争は、いつの間にか、キリスト教のカトリック教会の権威を低下させてしまいました。また、国対国の各国の威信をかけた戦いは、それぞれに国力を消耗していたのです。そして、大義名分のない勝者のいない戦いへと変貌していったために、各国とも戦争意欲を失っていくようになりました。そのために、この三十年戦争を終わらせようと、ドイツのウェストファリア(ヴェストファーレン)で参加国が集まって会議が行われたのです。そして、ドイツとフランス・スウェーデンの間で条約が結ばれ、各国もそれに参加しました。

ウェストファリア条約で認められたものとその結果

この条約によって、ドイツにおいてプロテスタントであるカルバン派が承認され、フランスとスウェーデンの領土拡大や、スイス・オランダの独立が承認されました。そして何よりも、各国の主権の確立が初めて承認されたのです。これは、明らかにプロテスタント側から参加した国やプロテスタントの勝利と言え、ドイツでは多くの国に分裂することになりました。ドイツはその後、プロイセンが統一するまで多くの国に分裂した状態が続いたのです。

また、カトリック側にいたハプスブルグ家のオーストリアやスペインは、スイス・オランダの独立を認める形になり、その国力は低下に向かいました。

このウェストファリア条約は、初めて国家主権というものを認めた国際条約となったのです。

神聖ローマ帝国の崩壊と近代国家の成立

このように、中世社会を牛耳ってきたローマカトリック教会と神聖ローマ帝国は実質的には崩壊し、各国はそれぞれに主権を持った国として認められたのです。これが、三十年戦争の結果として一番大きく、ヨーロッパに近代国家が成立して、産業革命、市民革命に向けて走り出したと言えます。

ハプスブルグ家の衰退_スペインの没落

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この戦争で、中世秩序の中心にいたローマカトリック教会の権威は地に落ちましたが、それ以外でも、このカトリック側にいたハプスブルク家の衰退が大きかったと言えます。すなわち、ハプスブルク家は、オーストリア、スペイン両国を所有していましたが、その国力は大きく低下したのです。

オーストリアは、ハプスブルク家本家であり、スペイン王国はその分家になっていました。スペインは、大航海時代の先頭を切り、アジアとの交易を可能にするとともに、アメリカ大陸を発見したコロンブスの派遣などによって、中南米を植民地化して繁栄を築いたのです。スペイン艦隊は無敵艦隊と呼ばれ、世界の海を支配していました。その無敵艦隊が、イギリス艦隊に敗れてからスペイン衰退は始まり、三十年戦争では貿易拠点となっていたオランダを失ったことで、国力の低下は大きかったのです。さらに、その後、イギリスで始まった産業革命にも乗り遅れて、ヨーロッパでもいつの間にか後進国となってしまいます。

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