初めての国際条約に繋がった「三十年戦争」とは?わかりやすく解説
西ヨーロッパ中心に中世秩序は壊されたー自由主義の台頭
ドイツ、チェコ、オーストリア、スペインなどは、ハプスブルグ家を中心に、自分たちの立場を守るために、プロテスタントに対しては厳しく弾圧しました。しかし、それ以外の地域では、プロテスタントは広がっていったのです。しかも、大航海時代以降、海上航路によってアジアとの交易の中心が、それまでの地中海諸国から、大西洋に面した西ヨーロッパに移っていました。商業化の進んだ地域で受け入れられたのです。当時のキリスト教社会は地中海諸国を中心に繁栄しており、商業に対しては、キリスト教では「ベニスの商人」でもわかるように、比較的否定的に見られていました。そのため、西ヨーロッパでは、商業に対して寛容なプロテスタントは受け入れられる環境が整っていたのです。
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カトリック社会の敗北
さらに、カトリック社会では、敗北が続いていました。すなわち、1529年には、イスラム社会のオスマン帝国の軍勢がオーストリアの首都であったウィーンを包囲する事態が生じたのです。また、16世紀末には、イングランドの女王になったエリザベス一世の治世の元で、イギリス艦隊が大躍進を見せます。ハプスブルグ家の一員であったスペインの当時無敵を誇っていたスペイン無敵艦隊を撃破するという事件も起こったのです。
そのため、ローマカトリック教会やハプスブルグ家は、プロテスタントが広まることによって、自分たちの威信の低下をさらすことになりました。
神聖ローマ帝国の崩壊と多くの国の参加
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神聖ローマ帝国やハプスブルグ家のプロテスタント弾圧戦争は、プロテスタントが主流になっていたイングランド、フランス、オランダなどの反発を招きまました。オランダは、当時はまだスペインの属国地域になっていましたが、スペインからの独立を求めて自治が進んでおり、積極的に戦争に参加したのです。一方、領主国であったスペインはハプスブルグ家の一員であったこともあり、オランダの参戦を許せず、こちらもカトリック側に参戦します。
そして、ローマカトリック教会からの独立を求めるイングランド、フランスもプロテスタント側に参戦しました。さらに、プロテスタントの多いスウェーデンやデンマークなどの北欧諸国もプロテスタント側について参戦したのです。単なる宗教戦争ではなく、国対国、同盟国対同盟国の戦争に発展していきました。
宗教戦争として始まったが、いつしか国の威信をかけた戦争に
このように当初は宗教上の戦争でしたが、各国の威信をかけた戦争の様相に変わっていき、戦争は長期化していったのです。戦争が長引くと、もともとのカトリックとプロテスタントの戦いという名目はどこかに行き、各国が自国の威信を保つために負けられない戦争となりました。
三十年戦争は継続して三十年間続いたのではない
但し、三十年戦争は、1618年から1648年まで戦争が続いた訳ではなく、中断期間もありました。国対国の戦争も、兵糧などの関係、商業、農業への影響から継続的に行われた訳ではありません。主な戦場はドイツ、チェコであり、外から参加している国は常に参戦していた訳ではなかったのです。
ドイツの宗主国的な立場にいたオーストリアや、そのためオーストリアと国境を接するフランスは常に戦争を継続し、特にオーストリアの国力は大きく低下しました。
三十年戦争の近代国家が確立された戦争としての性格
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この三十年戦争は、それまでの戦争が、領主対領主の戦い、或いはイスラム教との戦いであったのに対して、初めてヨーロッパの国対国による戦争になったと言えます。すなわち、古い中世社会の領主と教会を中心とした社会から、近代国家による統治の時代に変わっていったのです。