室町時代戦国時代日本の歴史

【戦国時代】下克上を成し遂げた4人の梟雄を解説

百姓みたいな立場から浦上家の重臣へ

宇喜多直家は1529年、備前を治めていた大名である浦上家の家臣である宇喜多家に生まれます。しかし、彼の人生は最初はハードモード。6歳の頃には祖父が暗殺され城から追放。父と放浪の旅に出るようになり、一時期は百姓と同じ生活を送るぐらいまで没落していました。

しかし、成人すると一応浦上家の家臣出身だったため、浦上家に登用され家臣としての生活がスタートします。しかし、彼はこのような過酷な生活の中である才能を発揮するようになりました。直家はまず自身の知略を全て使い祖父の仇である島村盛実を暗殺。さらに同じライバルであった家臣などをばかすか暗殺していき、最終的にはライバルを全て蹴落としたこともあり、浦上家の家臣ではトップの座につくことができたのでした。

さらに直家の快進撃は止まりません。浦上家の重臣になった後でも浦上家のライバルであった家の当主を当時まだ珍しい鉄砲で暗殺。さらに自身と婚約関係となっていた家を必ず滅ぼし自分の勢力下に入れます。こうして浦上家の家臣として大車輪の活躍を見せていた直家はいつしか浦上家にはなくてはならない存在となっていたのでした。

浦上家を乗っ取り岡山の領主へ

こうして浦上家の重臣となった宇喜多直家。しかし、彼の野望はこんなところでは治りませんでした。直家はついに1569年に浦上家に謀反。織田家と協力して浦上家を乗っ取りにかかります。しかし、この作戦は失敗。直家は自身の活躍によってなんとか首は繋がったものの、しばらくはおとなしくする羽目となってしまいました。しかし、直家は諦めません。1回目の謀反から5年後の1574年、再び浦上家を裏切りこの時ついに浦上家の本拠地であった天神山城を占領。浦上家の当主を追放してついに下克上を果たしたのでした。

ちなみに、今では広島市についで中国地方の大都市となっている岡山は彼が創始したもの。日本屈指の下克上を成し遂げた直家が岡山を育て上げたのにはちょっと意外ですね。

#4 陶晴賢【大内家を乗っ取ったものの最後でつまずいた男】

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最後にご紹介するのは西国最大の大名大内家を乗っ取った陶晴賢です。陶晴賢といえば厳島の戦いによって毛利元就にやられた人というイメージしかありませんが、実は大内家の中では一二を争うほど有能な武将でもあったのでした。

西国無双の侍大将

陶晴賢は1521年、西日本において細川家と一二を争うほどの大大名だった大内家の家臣として生まれました。元々彼が生まれた陶家は大内家の中では重臣クラスの方の家だったこともあり、成人した時から晴賢はこの当時の大内家の当主であった大内義隆から重用されることになります。

こうして主君から重用されるようになった晴賢は政治には詳しくなかったものの、戦で主君をサポート。当時中国地方の覇権を巡って争っていた尼子家との対決で活躍し、『西国無双の侍大将』と呼ばれるようになったのでした。

大寧寺の変〜主君への裏切り〜

こうして大内家の重臣となった陶晴賢でしたが、1542年に月山富田城の戦いによって大内家が壊滅的な敗北をしたことによって彼の運命は大きく変わっていくことになります。陶晴賢は元々戦によって大内家を強くする主戦派の主格でした。しかし、この戦いの敗戦によって義隆は戦に消極的になり、家自体の方針も内政重視となってしまいます。こうなると戦が取り柄の晴賢は居場所がありません。晴賢からすれば「このままでは大内家は滅びる」と思ったことでしょう。そんなイライラや不満にさいなまれるようになった晴賢はついに謀反を決意。1551年に義隆に対して謀反を起こし長門の大寧寺において自害に追い込みました。こうして晴賢は下克上を達成。自身の傀儡の当主を新しく置き、大内家を乗っ取ったのでした。

しかし、彼の快進撃はここまで。1554年に晴賢は大内家から独立したばかりの毛利元就によって厳島の戦いにて敗北。自身は自害をする羽目となり、そのまんま大内家も滅ぶことになったのでした。

下克上は面白い例ばかり

ここで紹介した戦国時代における下克上はほんの一部。日本にはもっと過激なことをしてまで下克上を成し遂げた人も実はいるのですよ。もし興味を持ったのであれば下克上について色々調べてみるのもいいのではないのでしょうか?

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