下克上は達成したものの、最後は息子に
こうして美濃一国を手に入れた道三。しかし、下克上を達成した後でも課題が山積みに残っていました。その中でも特に重要だったのが尾張の織田家の動向。当時尾張では織田信長の父である織田信秀が急速に台頭。美濃へと攻めることがしばしばあり道三の悩みの種でした。
そこで道三は自らの娘を信秀の息子である信長に嫁がせ婚姻関係を結ばせます。こうして近隣諸国との戦争を終わらせ、無事に美濃の大名としての地位を保ったまま生涯を終えるかと思いきや、やはり時代は戦国時代。自身も下克上による被害を受けてしまったのです。
1555年。道三が虐げてきた息子であった斎藤義龍が自らの弟を殺し道三に対して謀反。道三は対抗しようとするものの自らの経緯が災いしてしまい最終的には2500人しか引き連れることができなかったのです。こうして絶望的な戦争に挑むことになった道三。結果は案の定勝つことはできず、道三は長良川のほとりで討ち死してしまいました。
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#2 松永久秀【信長も出来なかった三大悪事を一代で成し遂げた男】
次に紹介するのは松永久秀。この人はあの信長が家康に対してこの男を紹介するときに「こいつは人ができないような悪事を3つ成し遂げたやばい奴」と言い放ったほどのやばい男でした。
一体彼はどんな悪事を犯したのか?次はそんな松永久秀について見ていきましょう。
土豪から三好家の重臣へ
松永久秀の出自はあまり詳しくは分かっていませんが、一説によると阿波国の武将の息子の説から摂津国の土豪出身の説など様々あります。そんなよくわからないほどの無名な立場からスタートした松永久秀でしたが、成人すると久秀の優秀な才能に惹かれたのか当時近畿地方に強い勢力を誇っており『日本の副王』とも呼ばれていた三好長慶の祐筆(手紙を代わりに書く今で言うところの秘書みたいなポジション)に就任。
元々、三好長慶は低い身分でも才能があれば誰でもと要する人間だったそうですが、こうして三好長慶の重臣となった久秀は三好家をサポートしながら三好家に反抗する大名たちを次々に倒す日々に明け暮れることになり、久秀が大和国を平定した時には多聞山に巨大な城を築き上げて今の天守の原点ともなる櫓を建築するほどの権力を持つようになりました。
松永久秀の三大悪事
こうして三好家の中で重要なポストについた久秀。しかし、久秀がそんなポストで満足するはずはなく、久秀は1564年に主君であった三好長慶が亡くなるとどんどん本性を現していき同年に当時将軍であった足利義輝を当時三好家を支えていた三好三人衆と共同して暗殺(永禄の変)。さらに翌年になって三好三人衆と対立すると三人衆が近くに陣を構えていた東大寺ごと放火。東大寺の大仏を全焼させてしまいました。さらには久秀が劣勢となるとあっさりと信長に臣従。信長の力を借りた久秀は一気に盛り返していきついには三好三人衆を駆逐。三好家の実質的な権力を握るようになったのでした。
主家の簒奪・東大寺の放火・将軍の暗殺。一つだけでもやりたくないことを久秀は1人で3つ成し遂げたのでした。
信長を2度裏切り最後は自害
こうして三大悪事を働き戦国きっての悪者となった松永久秀。しかし、信長が上洛を果たすと久秀はその行動を慎み始め信長に臣従するようになります。しかし、彼がそんなことで悪事をやめようとはせず信長が将軍である足利義昭と対立するとそれに乗じて信長に謀反。反信長グループの1員となります。しかし、これは反信長グループの大物である武田信玄がなくなったことによって失敗。久秀は自分の城を信長に明け渡す代わりに許されました。
しかし、久秀の野望はここで終わることはなく、信長が毛利家と上杉家と対立するようになると再び信長に対して謀反を起こし、またまた反信長グループに参加しました。
でも2度目となるとさすが信長も大激怒。自身の嫡男である信忠を総大将として5万の大軍で久秀の所領だった信貴山城に攻めることになりました。
結局、この信貴山城の戦いと呼ばれる戦争によって信貴山城は包囲。久秀は信長から所持していた平蜘蛛の茶釜を譲れば命を助けると言われたのですが、みじめに生涯を終えるぐらいだったら死んだほうがましと思っていた久秀には聞かず、最期は平蜘蛛を破壊。そのまま自害して果てました。
#3 宇喜多直家【毒殺によって成り上がった謀将】
次に紹介するのは宇喜多直家。宇喜多家といえば豊臣政権の時に五大老の一人となった息子の秀家の方が有名ですが、実はこの直家という男は百姓みたいな立場から備前・美作2国を治める大名にまで下克上を果たしたまさしく謀将と呼べるぐらいの逸材でした。