日本の歴史昭和

「ポツダム宣言」とは?受諾の背景・経過・結果をわかりやすく解説

天皇の玉音放送を阻止せよ!最後のクーデタ未遂、宮城事件

長崎に原爆が落とされた翌日の8月10日、鈴木貫太郎首相は天皇隣席の下で最高戦争指導者会議を招集。昭和天皇は東郷茂徳外務大臣らが主張するポツダム宣言受諾に賛成しました。

この御前会議での決定を聞いた陸軍省では一部の将校が激しく反発します。陸軍大臣の阿南惟幾は反対派を抑えようとしました。しかし、クーデタ派は8月12日、近衛歩兵第二連隊の一部を完全武装で皇居に入城させます。

事態が緊迫する中、8月14日の深夜、昭和天皇の終戦の詔書、いわゆる「玉音放送」が宮内省の一室で録音されました。

一方、クーデタ派は森近衛第一師団長にクーデタへの賛同を求めますが否定的な態度を変えないと見るや師団長を殺害します。宮中に入った近衛兵は各所を占拠すると「玉音放送」のレコードを捜索。しかし、レコードを見つけることができません。

事態を知った首都東京を管轄する東部軍はクーデタに賛同せず、鎮圧に向けて行動し始めました。クーデタ派は失敗を悟り軍を宮中から下げ降伏阻止を断念します。これら一連の事件を宮城事件とよびました。

ポツダム宣言受諾の玉音放送

1945年8月15日の正午、太平洋戦争の終結を告げる終戦の詔書、いわゆる「玉音放送」がラジオから流れます。前日から、8月15日に重大な放送があるので全国民が聞くようにとの通達が出されていました。

この時、国民は初めて天皇の肉声を耳にします。録音状態が悪く、漢文調だったため多くの国民は正確に理解できなかったようですが「どうやら、日本の敗戦らしい」ということは伝わったようです。

玉音放送の中で昭和天皇は、戦局が必ずしも好転しないこと、原子爆弾により悲惨な被害が出て民族滅亡の危機にあること、戦争による多くの犠牲に非常に心を痛めていることなどを述べたうえで、共同宣言(ポツダム宣言のこと)を受諾するよう政府に命じたと述べました。

放送のあと、NHKの和田信賢アナウンサーによる内容の解説が行われ、そこで国民はおおよその内容を把握したというのが実情のようです。それからおよそ半月後の9月2日、日本全権の重光葵外相と梅津美治郎参謀総長が降伏文書に署名し第二次世界大戦は終結しました。

ポツダム宣言の結果

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ポツダム宣言を受諾し日本が降伏したあと、アメリカを中心とする連合国が日本を統治することになりました。日本統治のため設置されたGHQ(連合国軍総司令部)は戦前の仕組みを解体し、徹底した民主化を進めていきます。その基本方針はポツダム宣言の内容に沿ったものでした。GHQによる統治は1952年まで継続しました。

GHQによる日本占領

GHQ(連合国軍総司令部)は第二次世界大戦後の日本を統治した機関です。GHQは直接統治をおこなわず、指令は全て日本政府を通して実行されました。1945年8月14日、日本のポツダム宣言受諾の通告を受けマッカーサーがGHQの総司令官に任命されます。8月30日、マッカーサーは厚木飛行場に降り立ちました。

マッカーサーはポツダム宣言の内容を次々と実行に移します。軍国主義者を排除するための公職追放、日本を軍事占領するための連合国軍の進駐日本軍の解散戦争犯罪人の処罰など矢継ぎ早に実行しました。

また、1945年10月4日に出された人権指令では治安維持法や特別高等警察の廃止政治犯の即時釈放などを日本政府に指令。皇族出身の東久邇宮内閣は人権指令の実行は無理だとして総辞職。かわって、戦前から協調外交を進めた幣原喜重郎元外相が総理大臣に指名されました。マッカーサーは幣原内閣に人権指令の実行とさらなる改革(五大改革指令)の指示を出し日本の民主化を進めます。

日本国憲法の公布・施行

ポツダム宣言の受諾により日本は民主化・非軍事化することを義務付けられていました。GHQは天皇主権の大日本帝国憲法に代わる新たな憲法をつくることを幣原内閣に指示します。

幣原内閣の松本烝治は天皇の統治権を認める内容の憲法改正案を提出しましたがGHQはこれを拒否。松本案の提示から8日後の1946年2月13日、GHQはマッカーサーが作成した草案を日本政府に提示しました。日本政府はマッカーサー草案に沿う内容の憲法改正案を作成し公表します。

その中で日本の統治権は日本国民が持つ(国民主権)ことや天皇は国の政治に関与せず、内閣が政治の最高責任を負うことなどを内容としました。1946年11月3日、帝国議会で憲法の改正案が可決、公布されます。翌1947年5月3日に日本国憲法とし施行されました。新憲法は国民主権・基本的人権の尊重・平和主義を柱とするもので現代日本の基盤となっています。

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