幕末日本の歴史江戸時代

井伊直弼が行った「安政の大獄」とは?原因や経緯をわかりやすく解説

旧一橋派や尊王攘夷派による井伊直弼への非難

将軍継嗣問題で敗れた一橋派は無勅許での条約調印は井伊直弼の独断専行であると強く批判します。前水戸藩主の徳川斉昭や越前藩主松平慶永らの旧一橋派に加えて孝明天皇も激怒しました。

外国を追い出せという攘夷の主張と天皇や皇室を敬うべきだとする尊王論が融合した尊王攘夷運動が高まりを見せたのです。元小浜藩士の梅田雲浜や儒学者の頼三樹三郎らは尊王攘夷の立場から幕府を激しく批判します。

また、孝明天皇は水戸藩に「戊午の密勅」を下しました。密勅の中で天皇は条約の無勅許調印を責め、一致協力して外国の脅威に立ち向かうことを要望します。同じ内容は幕府にも伝えられましたが、幕府は従いませんでした。こうして、無勅許調印に対する批判や波紋は無視することができない大きなうねりとなります。井伊直弼は対応を迫られました。

井伊直弼による大弾圧

井伊直弼は幕府に反対する勢力に対して厳しい態度で臨むことを決めます。反対派の公卿や大名を引退や落飾・出家させる一方、反対する幕府官僚の罷免、志士の処断などに踏み切ったのです。

左大臣近衛忠熈、右大臣鷹司輔熈らは辞職し落飾・出家。前水戸藩主の徳川斉昭は水戸で永蟄居、一橋慶喜・尾張藩主の徳川慶勝・越前藩主の松平慶永・土佐藩主の山内豊信ら一橋派の中心となった藩主たちは隠居させられました。幕臣でも一橋派に与したと見られた人物は役職を追われます。

また、梅田雲浜・橋本左内・長州藩の吉田松陰ら幕府を批判した藩士たちは捕らえられ、獄死したり死刑にされたりしました。民間人だった儒学者の頼三樹三郎も逮捕され死罪となります。

のちに安政の大獄とよばれるこの出来事は江戸時代270年の歴史の中でもまれに見る大弾圧事件でした。しかし、尊王攘夷運動は弾圧で沈静化するどころかかえって勢いを増します。安政の大獄は今まで以上に井伊直弼に対する反感を集中させたのです

安政の大獄のその後

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安政の大獄で人々の批判・恨みが集中した井伊直弼は桜田門外の変で水戸藩浪士らに襲撃されて命を落とします。かわって幕府政治を主導した老中首座の安藤信正は公武合体を唱え朝廷との協調をはかりました。しかし、安藤も公武合体に反対する尊王攘夷派に襲撃され失脚すると幕府の指導力は急激に低下します。

桜田門外の変の発生

1860年3月3日、ひな祭りの日は江戸にいる諸大名が将軍に祝賀を述べるため江戸城に登城する日です。大老の井伊直弼も江戸城へと向かっていました。沿道には大名行列を見物しようと大勢の江戸町民が集まっています。この日は季節外れの雪。井伊直弼の護衛兵たちは雨合羽を羽織ったうえ、刀や槍の先にふくろをかけていました。

井伊直弼の行列が江戸城の桜田門に差し掛かったころ、水戸藩浪士らが井伊直弼の乗っている駕籠めがけて突撃を開始。井伊直弼は銃撃を受けて負傷したため、駕籠から動けなくなります。水戸浪士たちはあっというまに井伊直助の駕籠に迫り、彼を駕籠から引きずり出して首を取りました。

事件はわずか十数分のうちに終わったといいます。水戸藩は前藩主まで蟄居になるなど他藩よりも厳しい処遇をされ藩士の怒りも大きかったので、元藩士らが井伊直弼を襲撃したのでしょう。

坂下門外の変の発生

井伊直弼の死後、幕府政治を主導したのが老中首座の安藤信正でした。安藤にとって頭が痛い問題は開国に反対する尊王攘夷派の勢いが増したこと。安藤は朝廷と協調することでこの危機を乗り切ろうと画策します。

1860年、安藤信正は攘夷実行の約束をしたうえで孝明天皇を味方につけ、幕府と朝廷が力をあわせて難局を乗り切る公武合体策を実行しました。協力の象徴として孝明天皇の妹である和宮と14代将軍徳川家茂の結婚を取り決めます。和宮降下は尊王攘夷派を激高させました。

その一方、水戸藩に対して厳しい態度をとりました。和宮降下と水戸藩への弾圧は幕府への不満を高める結果となります。

1862年、尊王攘夷派は安藤信正を江戸城坂下門の付近で襲撃、負傷させました。この坂下門外の変の結果、安藤信正は失脚してしまいます。安藤の失脚以後、幕府を主導する人物は一橋慶喜の登場を待たなければなりません。

大弾圧でも歴史の流れを変えることはできなかった

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江戸時代を通じて幕府=公儀の権威はとても強力でした。公儀に逆らうことは死を意味したのです。井伊直弼は公儀に逆らう人々を徹底的に弾圧して幕府の権威を見せつけようとしたのでしょう。しかし、彼の大弾圧は反対派を委縮させるところか、かえって激高させただけでした。井伊直弼・安藤信正が反対派のテロで死亡・失脚したと、幕府は急速に弱体化します。歴史の流れを大弾圧によって変えることはできませんでした。

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