三国時代・三国志中国の歴史

乱世の奸雄「曹操」の生涯とは?わかりやすく解説

荊州平定と赤壁の戦い

北を制した曹操は南に兵を転じます。曹操が軍を差し向けたのは劉表が支配する荊州でした。曹操が兵を向ける直前、劉表が亡くなり曹操に荊州攻略のチャンスが訪れます。

曹操暗殺計画の後、各地を転戦していた劉備は劉表のもとで国境警備にあたっていました。その劉備のもとに曹操の軍が姿を現します。劉備は新たに得た軍師諸葛亮の活躍などにより善戦しますが長坂の戦いで敗北しさらに南へと逃れました。

劉表の子は曹操に降伏。こうして、荊州も曹操の支配下に入ったのです。残るは長江下流域の呉を支配する孫権のみ。満を持して大軍を呉に向かわせますが、赤壁で呉の水軍を率いる周瑜が行った火攻めに敗れてしまいました。赤壁の戦いに敗北した結果、短期間での天下統一は困難になります。

魏王となった曹操

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献帝を擁して漢王朝の実権を握る曹操に逆らえるものは誰もいませんでした。曹操は献帝によって魏王に任命されます。王は皇帝のすぐ下の地位です。魏王となった曹操は呉の孫権、蜀を支配した劉備と戦い続けます。そして、220年にその波乱の生涯を閉じたのです。晩年の曹操についてみていきましょう。

漢中争奪戦

中国の中心部である華北の大半を支配した曹操は南西部に位置する漢中の制圧を図ります。当時の漢中は宗教団体である五斗米道の支配下にありました。曹操は漢中に攻め込み制圧することに成功し、夏侯淵に漢中の地を支配させます。

その漢中を狙っていたのが蜀の劉備でした。劉備は赤壁の戦い後に勢力を急成長させ、荊州の大半と中国南西部にあたる蜀の地を支配していました。蜀から中国中央部である中原に向かうためには漢中は必要な場所。劉備は大軍を率いて漢中を攻めます。

漢中を支配していた夏侯淵は定軍山で劉備軍と戦って敗北。援軍に向かっていた曹操軍は劉備軍と戦いますが、勢いに乗る劉備軍を止めることができません。これ以上の戦いの長期化は不利だと悟った曹操は漢中を放棄し軍を引き上げました。

英雄の死

漢中を制圧した劉備の勢いはとどまるところを知りませんでした。荊州を支配していた劉備の義弟である関羽は曹操軍が支配していた荊州の要衝、樊城に攻め込みます。曹操は于禁(うきん)・龐徳(ほうとく)に樊城を救援させますが関羽に撃破されました。

このことに慌てた曹操は許昌から都を移そうとすら考えますが、側近らに止められて思いとどまります。のちに関羽は孫権配下の呂蒙の計略により討ち取られ、首が曹操のもとに贈られました。曹操は関羽をことのほか気に入っていたこともあり、首を丁重に葬ります。

このころから、曹操は病気がちになり日増しに病状は悪化していきました。220年、曹操は病によって死去します。献帝に代わって皇帝になることもできたでしょうが、曹操は死ぬまで魏王にとどまりました。献帝が退位し魏が新しい王朝となるのは息子の曹丕の時代からです。曹操は戦時であることを踏まえ、墓に金銀をいれないよう遺言したといいます。

悪役曹操は現在、再評価されつつある

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『三国志演義』に出てくる曹操は皇帝である献帝をないがしろにし、主人公である劉備と敵対する悪役として描かれます。しかし、彼のもとには多くの人材が結集していました。曹操には優秀な人材を引き付ける人間的な魅力があったからなのでしょう。政治家として、軍人として、文化人としても第一級だった曹操はもっと評価されるべき人物ではないでしょうか。

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