三国時代・三国志中国の歴史

乱世の奸雄「曹操」の生涯とは?わかりやすく解説

徐州侵攻と兗州攻防戦

曹操の父である曹嵩(そうすう)は董卓と反董卓連合軍が戦いとなった時、戦乱から逃れるため徐州に避難していました。曹操が兗州で地盤を固めると曹嵩は兗州に行こうとします。移動の途中、徐州を支配していた陶謙の部下が曹嵩を襲撃、一行を皆殺しにしたうえで財産を奪いました。

このことに曹操が激怒。麾下のほとんどの兵を率いて徐州に攻め込みます。曹操軍は陶謙軍を撃破し各地で民衆を虐殺しつつ陶謙のもとに迫りました。あわや陶謙が滅ぼされるかというとき、董卓を殺して各地を転々としていた呂布が曹操の留守を狙って兗州に攻め込みました。

曹操は呂布と決戦するため兗州へ。曹操軍と呂布軍の激しい戦いが続きますが、イナゴの大発生がこの戦いを止めます。互いに食料を確保してから再度対戦。結局、曹操軍が勝利し、呂布は徐州へと逃れたのです。

献帝の擁立と許昌遷都

反董卓連合軍が洛陽へと迫ると、董卓は皇帝である献帝を連れて本拠地に近い長安に撤退。董卓が王允の策謀により腹心の呂布によって殺されると長安は混乱状態となります。董卓の死後は董卓の部下であった李傕(りかく)や郭汜(かくし)が献帝の身柄を押さえました。

董承らの活躍で彼ら二人の手から逃れた献帝は洛陽へと帰還します。しかし、洛陽は董卓の手によって焼き払われたまま再建もままならない状況でした。そこに現れたのが曹操です。曹操は献帝に許昌への遷都を提案。献帝もこれに従いました。

献帝を保護することで曹操は「官軍」としてふるまうことができ、逆らう相手を賊として討伐できるようになります。と同時に、献帝が勝手に行動しないよう献帝のそばには曹操の息のかかった者たちが配置され朝廷の実権を握りました。

宛城の敗北、呂布との決戦

197年、曹操は洛陽の南に位置する宛城を攻めました。宛城を支配していた張繍(ちょうしゅう)は曹操の大軍に勝てないと考えて降伏。ところが、曹操は張繍の叔父であった張済の未亡人を側室にしたことから張繍の恨みを買います。このことを知った曹操は張繍の排除をはかりました。

先手を打ったのは張繍です。軍師賈詡(かく)の進言を容れて曹操を罠にかけました。寝込みをおそわれた曹操は一目散に逃げだしますが、長男の曹昂、護衛隊長の典韋を失ってしまいます。

張繍との対決に敗れた曹操は徐州の呂布に決戦を挑みました。曹操は徐州を追われた劉備とともに呂布を追い詰めます。呂布は下邳(かひ)城に籠城しましたが、曹操は城を水攻め。城兵の士気は衰えさしもの呂布も捕らえられてしまいます。曹操は呂布の武勇を惜しみ助けようとしましたが、結局は危険性を考えて処刑。こうして、曹操を脅かした呂布の勢力は滅亡したのです。

曹操、華北の覇者となる

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黄河中・下流域にあたる中原各地で戦いながら勢力を拡大させた曹操は黄河北方にある河北の支配者袁紹との決戦を行いました。官渡の戦いです。長きにわたる袁紹との戦いに勝利した曹操は黄河以北で最強の勢力へと成長しました。彼の最終目標は中国全土の統一です。曹操は長江中流域の荊州と下流域の呉を制圧するため大軍を動かしました。

曹操暗殺計画

許昌に迎えられた献帝は政治の実権を持たない飾りものの皇帝でした。献帝の側近たちは曹操を排除することを企図します。その中心人物が献帝の后の父であった董承(とうしょう)でした。董承は献帝から与えられた服の帯に違和感があることに気づき、帰宅後、服の帯を切り裂くと中から「曹操を討て」という献帝の秘密命令がでてきました。

董承は同志を募り曹操暗殺を企てます。その一員として劉備もいました。暗殺計画は実行前に漏れ、董承はじめ首謀者は曹操にとらえられ処刑されます。董承の娘である献帝の后も処刑されました。

首謀者が処刑される一方、敵軍と戦うために出撃していた劉備は難を逃れることができました。朝廷内での反曹操派を一掃した曹操は河北の雄、袁紹との対決に臨みます。

華北の支配者を決めた官渡の戦い

そのころ、中国大陸の勢力は徐々にまとまりつつありました。黄河流域を抑え、皇帝である献帝を擁する曹操、黄河の北部である河北を制した袁紹、長江中流域の荊州を支配する劉表、長江下流域の呉を支配する孫権などです。特に、曹操と袁紹の対立は避けられないものとなっていました。

200年、袁紹は曹操と戦うため黄河南岸の河南への侵攻を決定。初戦の白馬の戦いでは敗れるものの物量を活かして曹操軍を圧迫します。曹操は官渡の砦を最終防衛線として徹底抗戦したため戦いは長期化しました。

膠着した状況は袁紹軍の参謀の一人が曹操に降伏したことで動き出します。降伏した参謀は袁紹軍の食糧庫の場所を曹操に教えたのです。これを知った曹操は素早く食糧庫を襲撃し焼き払いました。

食料を失った袁紹軍は激しく動揺。有力武将の寝返るなどもあり袁紹は官渡での戦いに敗れました。その後、袁紹の子供たちは曹操に各個撃破され河北の支配者袁家は滅亡します。

 

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