大阪冬の陣では大砲による煙硝の大量消費
大坂冬の陣では何十台もの大砲から連日撃ち続けたとされています。そのうち大阪城内に命中したのはたったの1発だけであったと言われていますから、大坂城を撃ち落とすために大砲を使用するには、あまりにも非効率だったということです。大坂城は規模が大きく、砲台から天守閣までは、大砲の弾が届かなかった中、たまたま偶然に1発が天守閣に命中したに過ぎませんでした。その結果として淀君の戦意喪失につながり和睦をはかることにつながっただけなのです。
徳川家康としては天守閣へ大砲の弾を届かせるよりは、とにかく大砲を撃ち続けるための機会が必要だったに過ぎず、淀君が降伏するしないは関係ありませんでした。家康にとって気がかりだったのはむしろどれだけ煙硝が消費されたかそのことに尽きるのです。大阪冬の陣では想定外の形で和睦に入ったため、砲撃を中止せざるを得ず、煙硝がまだ消費しきれなかったために大阪夏の陣が引き起こされました。
煙硝の締め出しには鎖国しかなかった
関ヶ原の合戦を経て徳川政権に移行した後も大阪の陣によって煙硝を大量に消費しましたが、江戸幕府によって参勤交代などによって大名を統制するにしても、どこから反旗が上がるかがわからない状況でした。それは煙硝の大量の仕入れルートが生きたままだったからです。それゆえ例え徳川幕府によって公に輸入を制限したところで、島津氏の薩摩藩や前田氏の加賀藩など外様大名の大藩によって大量に需要が生み出される危険はなくなりませんでした。したがって戦国の世に逆戻りになりかねない煙硝の大量流入を食い止めるには鎖国しかなかったのです。
一度秀吉によって成し遂げられた豊臣氏による天下統一を家康が武力で覆した既成事実がある以上、江戸幕府の維持には何としても秀吉の刀狩りに匹敵する、煙硝を食い止める必要が出てきました。大井川など江戸幕府への行き来の要となる所に橋をかけなかったり、大藩を監視する目的で親藩を側に配置するなど、各大名の領地の配置も工夫しましたが、煙硝を食い止めるには、江戸幕府が物理的に制限する他なかったのです。
こちらの記事もおすすめ
江戸幕府ってどんな幕府?一番成功した江戸幕府と当時について徹底解説 – Rinto~凛と~
太平の世を実現するために鎖国はやむを得ないものだった
鎖国は豊臣政権において煙硝の仕入れルートを大量に確保したことに起因します。豊臣政権では確保した煙硝の消費を朝鮮出兵によって消費しましたが、徳川政権ではむしろ泰平の世のために煙硝の流入は抑えるべきものとなりました。しかし交易上での流入の制限はほぼ不可能なレベルになっていたため、やむを得ず鎖国をすることになったのです。