幕末日本の歴史江戸時代

幕末の流れを決めた薩長同盟とは?わかりやすく解説

第二次長州征討の失敗

1865年、第一次長州征討後に藩の実権を握っていた幕府に従うべきだとする恭順派をクーデタで排除した高杉晋作らは幕府と公然と敵対します。業を煮やした幕府は朝廷に働きかけ第二次長州征討を開始しました。

第一次とは異なり、朝廷や諸藩では反対の空気がつよまります。それでも幕府は第二次長州征討を強行。1866年6月に戦端が開かれました。幕府は軍を4つに分け四方から長州藩を攻撃します。

ところが、各地を守る長州軍は幕府軍相手に善戦。特に島根県方面の指揮を執った大村益次郎や小倉方面の指揮を執った高杉晋作らは守るだけではなく、相手方の領域に攻め込み大村は浜田城を高杉は小倉城を制圧しました。

戦いが長引く中、14代将軍の徳川家茂が大坂城にて急死。幕府側を代表する人物となった徳川慶喜は強引に兵を引きました。長州藩は武力で幕府の圧力をはねのけ、薩摩藩はそれを側面から支援。薩長同盟は幕府の侵攻を見事に打ち破ったのです。

長州藩の復権と討幕派の動き

第二次長州征討の失敗は幕府の権威を著しく失墜させました。戦いの後、薩摩藩と長州藩・広島藩は討幕を目指して行動を開始します。この状況下で公武合体の立場に立っていた孝明天皇が急死。新しく明治天皇が即位しました。

討幕派は変化した状況を最大限利用します。薩摩藩の大久保利通は公家の岩倉具視らと接触。長州藩の朝廷での立場を回復しました。さらに、岩倉らは朝廷に働きかけ討幕の密勅を出させることに成功します。

危険を感じた徳川慶喜は大政奉還をおこない討幕の密勅を無効化しました。しかし、討幕派は追い打ちをかけるように王政復古の大号令を宣言。慶喜を排除した新政府を樹立しました。

同日夜の小御所会議では慶喜に内大臣の職を辞めることと領地の返上を要求。これに怒った旧幕府側の軍と戦い鳥羽伏見への戦いへと誘いました。薩長同盟で結びついた両藩は確実に幕府を追い詰めていったのです。

薩長同盟は維新回天の軸となった

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薩摩藩と長州藩が互いを守るために結んだ攻守同盟である薩長同盟。同盟の力で幕府を退けたのち、同盟は新しい時代を切り開く原動力となりました。同盟の立役者である坂本龍馬は新しい時代を見ることなく暗殺されてしまいます。しかし、彼が仲介した薩長同盟は新しい時代の回天軸となり歴史を大きく変えていきました。

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