フィレンツェ要塞建設の現場監督となる
ローマから再びフィレンツェへ戻ったミケランジェロは、レオ10世からの依頼でメディチ家礼拝堂(サン・ロレンツィオ大聖堂)の修築に取り掛かっていました。しかし、当時のヨーロッパはルターの宗教改革なども起こり、激動の時代を迎えつつありました。
神聖ローマ帝国のカール5世が、軍勢をローマへ進軍させて略奪させた「ローマ劫略」をきっかけに、フィレンツェでも共和派の動きが活発となり、ついにメディチ家を追放します。報復と逆襲を恐れた共和派や市民は、防衛のために要塞の建設を計画し、現場監督としてミケランジェロが選ばれたのでした。
彼が設計した要塞は、いかんなくその力を発揮し、敵を寄せ付けません。さすがは建築でも天賦の才を発揮したミケランジェロでしたが、いくら都市を防衛するにしても食糧がなければ戦えません。神聖ローマ帝国軍とクレメンス7世(レオ10世死後の教皇)を後ろ盾としたメディチ家の連合軍の前に抗戦10ヶ月にしてついに降伏したのでした。
メディチ家によるフィレンツェ支配が復活し、追及の手を恐れたミケランジェロは、メディチ家礼拝堂の地下に隠れて逮捕を免れたといいます。
ローマ教皇の依頼で「最後の審判」を描くことに
共和派側に付いたミケランジェロでしたが、彼の才能と運がまたもや味方したのでした。クレメンス7世が、ミケランジェロの才能を惜しんで赦免したのです。半ば強制的にローマへ移住させられ、教皇はシスティーナ礼拝堂の祭壇奥の壁に「最後の審判」を描くよう依頼しました。
ミケランジェロはこの時58歳。最後の大作品だという思いもあったかも知れません。足掛け7年の歳月を使って壁画を完成させたのです。クレメンス7世の死後に教皇となったパウルス3世も、壁画の完成を望んだため、結局、ユリウス2世の霊廟は完成まで40年もの期間を費やすことになったのでした。
「最後の審判」はフレスコ画で描かれ、見る者を驚かせるダイナミックな構図と鮮やかな彩色で、まさにルネサンスの最後を飾る代表的な絵画となっています。
最後の審判
中央にキリストとマリアが描かれ、その周囲に十二使徒がいるという構図。20世紀後半に大修築作業が行われ、その際にミケランジェロが使った当時の彩色が再現されています。
「最後の審判」が完成した際に、パウルス3世と同行した儀典長チェゼーナは「こんな神聖な場所に裸の姿ばかり描くというのは似つかわしくない」と批判。それを耳にしたミケランジェロは、地獄の番人ミノスの顔を、チェゼーナそっくりに描き直したそうです。しかも蛇に巻かれた裸の醜い姿で。
人生最後の仕事【サン・ピエトロ大聖堂の修築】
当時としては非常に長寿だったミケランジェロ。彼は晩年に至るまで創作意欲が旺盛だったそうです。そして彼の最後の仕事ともいえるのがサン・ピエトロ大聖堂の修築事業でした。
完成をその目で見ることなく亡くなる
ミケランジェロは70歳にして、この修築の仕事を請け負います。これまでサン・ピエトロ大聖堂はブラマンテやラファエロなどが担当して建設を続けてきたものの、彼らの死や様々な理由によって完成しないままでした。
彼は、その人生においておそらく最後であろう仕事に対して、ボランティアで請け負います。その他の建築物も合わせて引き受けていたため、晩年はまさに建築家だったといえるでしょう。
しかし、彼がその完成をその目で見ることはありませんでした。
1564年、88歳の波乱の生涯を閉じたのでした。遺体はローマから故郷フィレンツェへ運ばれ、その地で埋葬されたといいます。
そしてサン・ピエトロ大聖堂が最終的に完成し、献堂式を迎えたのは1626年のことだったのです。
サン・ピエトロ大聖堂
バチカンにあるカトリックの総本山。名前の由来は、キリストの使徒の一人である聖ペトロに基づくものです。大聖堂の象徴的な丸いドームはミケランジェロの設計によるもので、彼の死後は、いずれもイタリアを代表する建築家たちが事業を引き継いでいきました。もちろん世界遺産にも登録されています。
ちなみに、ここを訪れた観光客が、限られた時間の中で芸術作品を必死で見ていこうとする強迫観念のことを「スタンダール・シンドローム」といいます。