ダヴィデ像
大理石の一枚板から切り出された彫刻は、高さ4メートルにも及び、旧約聖書において、べブライ王国の少年ダヴィデが、巨人ゴリアテに対峙しようとする構図で、右手に石を持ち、左手は投石用の革紐を肩に掛けています。
フィレンツェ共和制の独立と自由の象徴として見なされ、現在はフィレンツェのアカデミア美術館に収蔵されています。
ローマ教皇ユリウス2世の気まぐれ【システィーナ礼拝堂天井画】
彫刻作品「ピエタ」と「ダヴィデ像」で名声を得たミケランジェロは、今度は壮大な絵画の製作をすることに。しかし、それは彼にとってあまり気乗りのしない仕事だったのです。
ユリウス2世の霊廟製作を命じられる
かつて自分をローマへ招いてくれた教皇ユリウス2世によって再びローマへ召喚された1505年、ミケランジェロはユリウス2世の霊廟を製作するよう命じられます。
霊廟といっても一般的な墓碑などではなく、サン・ピエトロ大聖堂へ行ったことがある方ならわかると思いますが、教皇自身の姿などをそのまま巨大モニュメントとした壮大で華麗な彫刻作品なのです。
しかしこのユリウス2世という人は、かなり気まぐれな人物だったようで、霊廟のために使われる大理石の代金を支払ずに、大聖堂増築に予算を回してしまったり、急にプロジェクトを停止させたり。ミケランジェロは散々な目に遭ったのでした。
ついに嫌気がさしたミケランジェロはフィレンツェへ帰ってしまいました。
作品の中で宗教批判を試みるミケランジェロ
気まぐれなユリウス2世は、とうとう霊廟製作にも興味をなくし、今度はバチカン宮殿にあるシスティーナ礼拝堂天井画の製作を思いつきました。建築家ブラマンテと画家ラファエロというルネサンスを代表する芸術家の耳打ちもあり、ユリウス2世はすっかりその気に。
そこで白羽の矢が立ったのは、またしてもミケランジェロでした。絵画の才があるとはいえ、そもそもミケランジェロは彫刻家だったので、内心は「ラファエロあたりにやらせろよ」という気持ちもあったことでしょう。フィレンツェ政府からも説得された以上は取り掛からずを得ません。
4年の歳月をかけて完成させた天井画は、「旧約聖書の十二使徒」を描くはずが計画を変更して創世記で記述されている「光と闇の分離~ノアの箱舟」までの9場面が中心となっており、いずれもフレスコ画の技法が用いられた精巧なものでした。
しかし、ミケランジェロは天井画の中で、わざと聖書の物語とは違う構図で書いており、気の進まない仕事を強要したユリウス2世への皮肉や、カトリック教会への批判などの意図を込めているとも言われています。
システィーナ礼拝堂天井画
礼拝堂の天井一面(高さ21メートル)にフレスコ画の技法で描かれた天井画。壁画の内容は、旧約聖書にのっとったエピソードが描かれており、その壮大さは見る者を驚かせます。
この壁画を天井いっぱいに描くために、大規模な足場を組み、ここでミケランジェロの学んだ建築の知識が大いに発揮されたといいます。また、4年もの間、ずっと上を見ながら書き続けていたので、仕事が終わってからも手紙を読むときなどは無意識のうちに上を向いてしまったというエピソードもあるほどです。
フィレンツェの危機とローマ教皇【最後の審判】
システィーナ礼拝堂天井画が完成して程なくしてユリウス2世が亡くなり、次期教皇にはメディチ家出身のレオ10世が就任します。しかし、メディチ家を最大のパトロンとしていたミケランジェロでしたが、内心はメディチ家と敵対するフィレンツェ共和派を支持していました。彼の故郷に戦火は迫ろうとしていたのです。