欧州最大の悲惨な戦争「第一次世界大戦」をわかりやすく解説
第一次世界大戦における日本
ヨーロッパで激しい戦闘が行われていた時、その反対側のアジアでは日本がイギリスから「アジアのドイツ軍の脅威を取り除いてほしい」という依頼を受けていました。その依頼に対して当時の首相大隈重信はこれを承認。アメリカが反対したのに戦争に参加を強行して中国の山東半島の青島やドイツ支配下の南洋諸島を制圧しました。
しかし、日本の目的は同盟を結んでいるイギリスを助けたいというわけではなく、このどさくさに紛れて中国の利益をかっさらうというものだったのです。それが如実に表れているのが1915年に中国に対して要求した二十一ヶ条の要求でした。この二十一ヶ条の要求には関東州(日本がこの頃中国から租借していた旅順・大連のこと)の99年の延長や中国の政治に日本が介入することなど独立国家に対する要求とは到底思えないような過激な要求でした。しかし、ヨーロッパの戦争で必死な諸国はこんなのには構ってられません。中国は渋々この要求を飲んで日本の言いなりとなってしまいました。
戦争の終結に向けての動き
セルビアの暗殺事件によって始まった第一次世界大戦でしたが、戦争が始まって3年目の1917年に入るとこの戦争にも終戦の動きが見られるようになります。次はどのようにして戦争が終わっていったのかを解説していきましょう。
ロシア革命の勃発
タンネンベルクの戦い以降、連戦連敗に追い込まれていったロシア。第一次世界大戦が始まってから国のために苦しい戦時中の生活を送ってたのに連戦連敗となると国民はロシア皇帝に対して「何をしているんだ!」と怒り心頭になります。まぁ、そりゃ当然ですけどね。
その結果ロシアの首都ペトログラードでは戦争中止や国民の生活の改善などを要求したデモに発展。いわゆるロシア二月革命が勃発してしまい、ロシア皇帝は退位。ロマノフ朝が崩壊しました。さらに10月になるとロシアでは共産主義者であるレーニン主導で十月革命が勃発。ボリシェビキの軍が当時のロシアの政府であった臨時政府を倒し、レーニンは平和についての布告を発表してドイツと講和。ポーランド・ウクライナの割譲を認めたブレスト・リトフスク条約を結び東部戦線はドイツ軍の勝利に終わりました。
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アメリカの参戦
東部戦線はドイツ軍の勝利で終わりましたが、西部戦線では逆にドイツ軍を一気に苦しめる展開となっていました。そう、アメリカの参戦です。
アメリカはこの頃モンロー主義という「どことも関係を結びません」という中立の立場をとってこの第一次世界大戦も不参加でしたが、ドイツがアメリカの輸送船であるルシタニア号を襲撃するとこの立場は一変。アメリカは孤立主義から一気に連合国に参加するまで踏み切りました。
こうしてこの頃から世界の覇者の片鱗を見せていたアメリカの参戦によって膠着していた西部戦線は一気に連合国有利となり、戦争は一気に終結に向かっていくことになりました。
ドイツ革命
1918年、西部戦線の苦戦や長引く戦争に嫌気がさしたドイツの兵士達が一斉に挙兵。これに呼応するかのようにドイツ国内の労働者や兵士が暴れ出すドイツ革命が勃発しました。最初の頃はドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が鎮圧に乗り込みますが、西部戦線の決定的な敗北や相次ぐストライキによってついにオランダに亡命。このドイツ革命によってドイツ帝国は崩壊して連合国と休戦協定を結びついに4年続いた戦争が終わりを迎えました。
こうして同盟国側の死者436万人、戦傷者869万人、連合国側の死者553万人、戦傷者1283万人という国が一気に傾きかねない死傷者と莫大な戦費を使った史上初めての世界戦争である第一次世界大戦はドイツの革命によって終結しました。
戦争の講和条約と新たなる火種
戦争が終わってから1年後の1919年、フランスのベルサイユ宮殿にてドイツの敗戦処理と領土分配が話し合われたパリ講和会議が開かれました。しかしこの時結ばれたヴェルサイユ条約によってドイツは大混乱。敗戦はしたものの、フランス軍が一歩もドイツ領土を占領していないこともあってドイツ国内では『背後からの一刺し』と呼ばれるユダヤ人迫害・フランスの恨みを持つようになり、後にヒトラー率いるナチスが独裁をする下地がこの頃から築き上げられていったのでした。