ヨーロッパの歴史

欧州最大の悲惨な戦争「第一次世界大戦」をわかりやすく解説

西部戦線の状況

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第一次世界大戦の主戦場はなんといってもフランスとドイツ帝国の国境付近である西部戦線。この地にて両軍合わせて500万以上の兵士が戦い、200万の戦傷者を叩き出してしまうなど国が崩壊するレベルの損害を出すに至りました。次はどのようにしてそんな悲惨な状況になっていったのかを見ていきましょう。

シュリーフェン計画の挫折と膠着

第一次世界大戦が始まってのちドイツ帝国はフランスを普仏戦争と同じように短期決戦をさせるためにベルギーを迂回してパリに突入するいわゆるシュリーフェンプランを立ててベルギーに宣戦布告。ベルギーを破竹の勢いで攻め、パリに向かい進軍します。しかし、ドイツ軍の破竹の進撃もこれまで。フランス軍が立て直しマルヌの戦いで敗戦。ロシアが迫っていることもあり短期決戦の計画は頓挫してしまいました。

そして西部戦線はフランスとドイツ帝国が国が傾くレベルの軍事力と人員を使い塹壕戦に突入していくことになるのでした。

西部戦線異常がありすぎ

塹壕戦に突入してから5カ月。塹壕の総延長が700キロを超えており、長期戦に突入。戦争初期のクリスマスの時にはいわゆるクリスマス停戦と呼ばれる非公式の停戦が行われていましたが、それも時が経つにつれてそんな余裕はなくなり、機関銃で兵士をなぎ倒す日々が続いていきます。さらに1916年にはソンヌの戦いにて戦車が初登場。両軍共に塹壕をこえることに必死でしたが、結局西部戦線は戦争が終わるまで停滞するに至ります。

西部戦線を体験したエーリッヒ・レマルクの『西部戦線異常なし』は日本でも有名ですね。

東部戦線の状況

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こうして悲惨な状況となった西部戦線でしたが、戦いの舞台は西部だけではなく、東部のロシア国境でも行われていました。一体東部ではどのような戦争が行われていたのでしょうか?次は東部戦線について見ていきましょう。

初期のドイツ軍の苦戦

第一次世界大戦が始まってすぐの頃はドイツ軍が西の方に集中していたこともありロシアが圧倒的に有利でした。東部戦線のドイツ軍は陸軍最強とこの当時呼ばれていたロシア軍に守ることしかできず後退。オーストリアに至っては連戦連敗の状態であり、もしかしたらロシアに負けてしまう危機に追い込まれてしまいました。

タンネンベルクの戦い

戦いが起こってから1ヶ月後の8月。西部戦線からなんとか兵士を引っこ抜いて戦線を立て直したドイツ軍はついに猛反撃を開始。武器の生産が追いついていなかったロシアはこの猛反撃に耐えることができずに後退を始めてしまいます。しかし、これをチャンスと見たドイツ軍はこの後退を見て追撃を開始。ダンネンベルクという地にてロシア軍に追いつき、追いつかれたロシア軍は総兵力25万のうち12万を戦死に追い込む大損害を叩き出してドイツ軍の東部戦線の優位は確定的なものとなりました。

このタンネンベルクの戦いに敗戦によってロシアではただでさえロシア第一革命が起こってすぐで混乱状態だった国内がさらに大混乱する結果を招いてしまい、ロシア二月革命という大暴動に発展する結果となってしまいました。

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