今川のために尽くした雪斎だが、彼の死が今川転落のきっかけに
雪斎は、現在の今川義元の基盤を盤石なものにするだけではなく、義元の息子、そしてさらに続くであろう未来の今川氏のためにと日々奔走していました。それは参謀的な役割だけではなく、自ら戦場に出ることも含まれていたのです。そして、人質とした幼子を、将来の今川重臣にしようとまで気を回していました。しかし、彼に残された時間は少なかったのです…。
内政面でも力を発揮
雪斎が能力を発揮したのは、外交面だけではありません。内政でも大きな役割を果たしました。
氏親の時代に、東国では最古の分国法(ぶんこくほう/その国で施行される法律)・今川仮名目録(いまがわかなもくろく)が制定されました。これに追加項目を加えたのが雪斎。いわば憲法改正と同じことですから、彼が法律にも精通していたことがわかります。
また、僧侶でもありますから、寺社の整備にも積極的でした。しかし、ただやみくもに寺社を保護したのではありません。
「徳のある僧なら、形式にとらわれることなく尊敬すべし。しかし、上人(しょうにん)だの何だのと立派な号があるからといってそれに胡坐をかき、堕落している僧たちは言語道断である!」
こんなモットーを抱いていたのでした。
戦にも強かった!マルチすぎる才能
外交、内政に長じていた雪斎は、戦も並みの武将以上にこなしました。
三河の松平氏は、織田と今川に挟まれて苦境に陥り、今川の傘下に入ることを選びます。この時、人質として今川に送られることとなったのが、松平竹千代(まつだいらたけちよ)でした。彼は後の徳川家康となる少年です。
しかし、竹千代が駿河へ向かう途中、織田に奪われてしまうという事態が起きました。
この時、雪斎は自ら兵を率いて織田と対決し、織田一族のひとりを捕らえ、人質交換を持ちかけて竹千代を取り戻したのでした。
その後、一説には、雪斎が竹千代の教育係になったとも言われています。しかしこの時彼は駿府に不在だったとも言われており、真偽のほどはわかりません。
ただ、竹千代を丁重に扱うように命じていたことは事実で、雪斎が彼を将来の今川重臣として育てようと考えていたと思われます。
雪斎の死と今川の斜陽
八面六臂の活躍を見せていた雪斎ですが、やがて体調を崩します。そして弘治元(1555)年、60歳でこの世を去りました。当時としては決して短命ではありませんが、彼の死が早すぎたと惜しまれるのは、5年後に起きた桶狭間の戦いで、あっけなく義元が命を落としてしまったからです。
もし雪斎が生きていれば、桶狭間で義元が敗死することはなかったのではと言う説も根強いですね。
そして、雪斎と義元を失った今川氏は、急速に弱体化していくこととなります。義元の息子・氏真は、武将としての才能は父に程遠く、家臣の離反を招くことになってしまいました。ほどなくして彼は領地を奪われ、今川氏は戦国大名としての終焉を迎えるのです。
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雪斎と今川は一蓮托生だった
武田信玄の軍師・山本勘助(やまもとかんすけ)は、「今川のことはすべて、あの坊主なくしては回らぬ」と言っていたそうです。あの坊主とはもちろん、雪斎のこと。彼を失った今川氏の衰退を見れば、勘助の言ったことがすべてでしょう。しかし、今川のために奔走した雪斎が残したものが、あっという間に崩れてしまったことは、戦国時代の悲しさと言ってもいいのかもしれませんね。
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