沖田総司はイケメンだった?
昭和12年(1937)沖田の墓が発見されたという記事が『都新聞』に載りました。その時に沖田は「白皙の美剣士を誇る大衆文芸の主人公を地で行った宿命の若き剣士」と書かれていたそうですね。故・司馬遼太郎が昭和40年に作った沖田総司も「薄幸の天才美剣士」「純粋」「透明」です。これがドラマや小説なども右へならえ状態になっていますね。なぜかというと「司馬史観」という司馬遼太郎が書いたことが正しい!という風潮が歴史小説やドラマなどには根強いのですよ。新しい研究によってそれもずいぶんと変わってきてはいるのですが、本当の沖田総司ってどんなヴィジアルだったのでしょうか?
現在における沖田総司のイメージは…?
先に書いたように、いつもニコニコしていて優しくて素直な性格だけれど、いったん剣をとったら敵なしという優等生なものばかりでした。今もそういう感じが多いですが、その沖田総司のイメージを少し変えたのは、しょこたんこと中川翔子さんのお父様の中川勝彦さん。ヴィジアル系ミュージシャンでも有名でしたが「日本テレビ年末時代劇スペシャル」の『白虎隊』で沖田総司を演じられたのでした。けっこうクールで豪快でしたね。沖田総司は結核でしたが中川さんは白血病で亡くなられましたので、若くして亡くなられたのが重なって印象が強いです。その後の映画『壬生義士伝』の堺雅人さんの沖田総司は、笑いながらどんどん人を斬っていく狂気じみた沖田総司でリアル過ぎて怖かったですね。
沖田総司の写真はあるの?
実は写真は1枚も残っていません。近頃ネットで出回っているイケメンの写真は、雑誌「ムー」で有名な(故)安久津和巳さんというイラストレーターが描かれたイメージ画だそうですよ。写真じゃなかったんですね。実は1枚だけ次姉のキンさんが持っていたという話があったのですが、引っ越しの時に処分してしまったそうですよ。残念ですね。
あと有名なのは下ぶくれのパタリロそっくりといわれている肖像画があります。土方歳三が大事に持っていたなどといわれていますが、実は描かれたのは昭和4年。長姉のみつさんが、孫の要(かなめ)が「どことなく似ている」と言ったのでモデルにして描かれたそうですよ。近頃はあまり見かけませんが、往年の『燃えよ剣』で沖田総司を演じられていた島田順司さんに似ているのも出回ったことがありましたね。
沖田総司はイケメンじゃなかった?
写真がないのですから、当時の人たちからの証言を調べていくしかないですが「色白だ」「色黒だ」「大柄だった」「小柄だった」って、まるっきりアテにならないですね。有名な「ヒラメ顔」というのは、土方歳三の姉が嫁いだ佐藤家の曾孫の人がテレビで取材をされた時に、ついウケ狙いで口を滑らせたものだという話ですよ。どんな取材の仕方をしたんですかね?
ただ笑うと愛嬌があり、冗談をよく言ってみんなを笑わせたり、壬生寺で子供たちと一緒に遊んでいたという証言がありますね。新選組を酷評している西村兼文ですら、沖田総司のことは悪く言っていないので好青年であったことだけは確かのようですよ。
沖田総司はモテた?
山南敬助のお墓の横に「沖田氏縁者」という碑があります。未亡人でその女性の間に子供ができたという話があるようですが確かではありません。同じ名字の沖田承之進という人がいたことから、そっちの沖田じゃないか?ともいわれているみたいですね。
兄弟子の井上源三郎の兄である井上松五郎の日記に文久3年(1863)4月22日に「土方・松五郎・井上源三郎と一緒に沖田総司も新町の廓九軒町吉田屋にて天神(遊女)を買う」と書かれているので、全く女遊びはしなかったということはないようですよ。好きな女性の話になると真面目だったという話も残っていますね。
近藤勇のように妾宅をつくったり、土方歳三のように山ほど遊女や芸者や舞妓からラブレターをもらったり、原田佐之助のように結婚したり、山南敬助や永倉新八らのように恋人がいたわけではないようですね。
沖田総司は幕末にあらわれた流星
両親をはやくに亡くし、幼い頃から試衛館で暮らしていた沖田総司にとって近藤勇は父のような存在で、試衛館の仲間達は家族のようなものですね。そのために命をかけて一緒に京都の町を駆け抜けていった人生は、けっして後悔のないものだったのでしょうね。幕末に一瞬であれ後世の私達に印象強く生きた沖田総司は、流星のような存在です。