池田屋事件での沖田総司
元治元年(1864)6月、炭薪商を営む枡屋喜右衛門のところに不逞浪士が出入りしているという調べがついて、家宅捜索したところ武器と長州藩への手紙が多数見つかったのですね。実は枡屋というのは勤王浪士の古高俊太郎だったことから取調べがはじまり「風の強い日に御所に放火をして、その混乱に乗じて松平容保を暗殺し中川宮などを幽閉して、天皇を長州に連れて行く」というとんでもない計画が判明したのですよ。
古高俊太郎が捕まったということから、不逞浪士たちは古高俊太郎を奪還するかどうかを相談するために会合をひらくという情報を監察方が報告します、そこで会津藩に知らせをやり出動することになりました。これが新選組を一躍有名にした「池田屋事件」なのですね。
集合時間に会津藩が遅れてきたといわれますが、実は功を焦った新選組がフライング出動をしたというのが本当です。場所も池田屋か四国屋といわれてますが、実は場所はわかっていなくて近藤組と土方組に分かれて鴨川の両岸を片っ端から調べて回ります。
6月5日亥の刻(22時頃)、近藤勇は沖田総司・永倉新八・藤堂平助を連れ、他の6人の隊士たちは浪士たちに逃げられないよう庭などに配置して、4人で20数人いる池田屋に突入し大激戦が始まりました。沖田総司は戦闘途中で倒れてしまいますが、それまでの戦いがすさまじかった証拠に『刀剣乱舞』にも出てくる沖田総司の愛刀で有名な「加州清光」が、終わった時に刃はボロボロとなって先端部分は折れてしまっていたといいますね。修理に出したという記録はありますが、その後の加州清光はどうなったのかの話は出てきません。
藤堂平助も顔面に傷を負って戦線離脱する中、近藤勇と永倉新八はふたりで戦うこととなりました。そこへようやく土方隊が到着して、斬り捨てから捕縛へと変更されます。ようやく会津藩が到着しますが、手柄を横取りされないように土方歳三が中に入れなかったといいますね。結果は9名討ち取って4名捕縛、翌日には会津藩・桑名藩と共に20あまりの人数を捕縛します。池田屋にいなかった不逞浪士も捕まえた計算になりますね。これによって幕府から多額の報奨金がくだされたのでした。
沖田総司が病に倒れたのはいつ?
沖田総司は池田屋事件の戦闘の最中に肺結核で喀血して昏睡してしまったと有名 ですね。その後は病状が悪化していき活動が減っていったとも。しかし、この後の「禁門の変」という長州藩との大戦闘の時も近藤勇・土方歳三・武田観柳斎・永倉新八と出動していたり、他にも活躍していたという記録があります。この池田屋での喀血の元ネタは、永倉新八の残した文章にある「呼吸器疾患をもっていた」「池田屋で倒れた」というのを、子母沢寛が『新選組始末記』で結核と表したためにできた話だともいわれていますね。
しかし2年後の慶応2年(1866)、近藤勇と懇意にしていた幕府御典医・松本良順(実は斬りに行って反対に説教をくらい師と仰いだという話が松本良順の日記に残ってます)が新選組を集団検診した際に「肺結核1名」という記録を残していますね。これが沖田総司だといわれていますよ。実際に翌年には皆もわかるほどの重篤になっていたそうで、小島鹿之助は『両雄実録』に2月、西本願寺の寺侍だった西村兼文は不動堂村へ屯所を移転した9月頃に大病を患ったと『壬生浪士始末記』に記していますよ。となると、慶応3年の秋以降というのは確実のようですね。
沖田総司と戊辰戦争
長州藩と薩摩藩が坂本龍馬らによって手を結び(薩長同盟)それが中心となって倒幕の動きが著しくなっていったために、慶応3年(1867)10月に十五代将軍・徳川慶喜が政権を朝廷に返すという大政奉還を行いました。そのため新選組は伏見へと移動します。
12月18日に沖田総司が療養のため滞在していた近藤勇の妾宅が、11月に新選組から分離した伊東甲子太郎を新選組が殺害したために壊滅した御陵衛士の生き残りが襲撃されました。その時にはすでに伏見奉行所へ移動したために無事でしたが、同じ日の夕方に同じ者達に近藤勇が狙撃されて負傷してしまったのです。
いよいよ薩長が中心とした新政府軍と旧幕府軍との戦いがはじまることから、負傷した近藤勇と病気の沖田総司は大坂城へと移動することになり、鳥羽伏見の戦いからはじまる戊辰戦争には参加できませんでした。しかし旧幕府軍は敗走することになり、生き残った隊士達と一緒に江戸へと帰ることになります。
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沖田総司の最期
江戸に帰ってからは松本良順の手配で千駄ヶ谷にある植木屋に匿われたというのが定説のようになっていますが、永倉新八の手記に「今戸の松本良順の元でなくなった」とありますね。そこは今戸神社にあり、八幡太郎義家ゆかりの神社で招き猫の発祥の地ともいわれているのですよ。今は沖田総司終焉の地としても有名になっています。植木屋宅の定説は子母沢寛が創作だそうですね。書かれた新選組三部作には小説家だということもあるのか、創作されたものが多いですね。
流山で新政府軍に投降して斬首された近藤勇の死からから2ヶ月後の慶応4年(1868)に亡くなりました。最後まで近藤の死を知らないままだったといわれていますね。
生年月日が不明確なために、享年は沖田家累代墓碑には24歳。沖田家文書には25歳。小島鹿之助の書いた『両雄士伝』の上洛時の22歳ということから計算した27歳。という3つの説がありますね。墓所は東京都港区の専称寺にありますが、墓石を結核の治療薬だという都市伝説がいつのまにかできて削って帰る人やファンが墓所を荒らすということから年に一度の「総司忌」だけお墓参りができるようになっています。戒名は「賢光院仁誉明道居士」といいますよ。