幕末日本の歴史明治明治維新江戸時代

西郷隆盛に影響を与え共に生きた5人の人々について解説

西郷との別れとその後

西郷は糸と結婚した当初から鹿児島の家にいることはほとんどなく、常に仕事のために飛び回っていました。幕府が倒れ、戊辰戦争が終わり、明治政府に出仕するようになってからもそれは変わりませんでした。しかし、征韓論の論争で西郷たちが敗れ、鹿児島へ帰ってくると、西郷夫妻にも幸せな時が訪れるようになりました。日々農作業をしたり野を駆け回るような農夫のような生活だったといいます。そして短い期間とはいえ愛加那の二人の子供も引き取って養育していたそうですね。

西郷は人材育成のために鹿児島に私学校を作り、そこでようやく一息ついたはずでした。しかし、いつしか西郷を慕う不平士族たちに担ぎ上げられ政府に反抗する旗頭にまつり上げられてしまったのでした。鹿児島は西南戦争の戦火で焼け、糸たち西郷家の人々も逃げ惑ったことでしょう。鹿児島の地で西郷の終焉を見送ったのです。

西南戦争後に、初代印刷局長で薩摩出身の得能良介が人を介して送った香典を、わざわざ東京まで返しに行かせたそうで、そういうところにも糸の気概の強さが感じられますね。

日本海軍の父となった西郷の弟【西郷従道】

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最後に、西郷隆盛の弟だった従道を紹介しましょう。若年の頃から西郷に付き従い、数々の戦いを転戦し兄を助けた従道。西郷の死後、その有能ぶりが開花します。海軍大臣にもなり軍のトップにまで昇りつめた人物だったのですね。

兄に従い戦い続けた従道

西郷従道の本来の名は「隆道」。役人が聞き間違えて「ジュウドウ」と登録されてしまったので、以後、従道と名乗るようになったとのこと。細かいことは気にしない豪放磊落な性格が伺えますね。若い頃は尊王攘夷の考え方に傾倒し、薩摩藩の攘夷派志士の多くが討たれた寺田屋事件にも加担していたらしく、この時には若年だからという理由で不問に付されています。熱い血がたぎってそうなところは元来から軍人気質だったのかも知れません。

薩長同盟が成立し、新政府軍が全国を転戦するようになると従道も兄に従って鳥羽伏見の戦い、上野戦争、北越戦争、会津戦争などに参加し、激戦を戦い抜いています。次兄の吉次郎も戦死し、従道自身も時には生命の危険すらあるような重傷を負ったこともあり、その功績もあってか明治政府では陸軍少将として任官していますね。

兄の死と政府内での立身出世

征韓論に敗れた兄隆盛が鹿児島へ下野した際、多くの者が付き従っていったにも関わらず従道は同調しませんでした。一説によると隆盛に「お前は残れ」と説得されたからだとか言われていますね。また西南戦争が起こった際にも戦争には参加していません。しかし、兄の死を伝え聞くや相当のショックを受けていたことが伝えられています。

しかし、そこから従道はトントン拍子に出世していくのでした。兄の死からわずか15年で海軍大臣にまで昇りつめ、日清日露の二度の大きな戦いにも大きな影響力を持ち、日本海軍を世界に認めさせたのもこの人の功績が大きいのではないでしょうか。そして日本海軍初の元帥となったのも従道でした。

何度も総理大臣候補に挙げられながら従道が拝命しなかったのは、兄隆盛の逆賊の汚名があったからだとも言われています。いっぽうで生涯一軍人として生きていたかったからかも知れませんね。部下には好きなようにやらせ、その責任は自分が取る。そんな人だったそうで、そういった人となりが人望を集めたのではないでしょうか。

人望のある人物には人が集まる

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西郷隆盛に関連する人物をピックアップしてご紹介しましたが、やはり西郷ほど人望があり能力のある人物の周りには、やはり様々な人が集まるということなのでしょう。もちろん西郷の身内には、先ほどご紹介した西郷従道や大山巌、西郷菊次郎などの偉人が多く輩出されてますし、薩摩閥と呼ばれる薩摩出身の人物たちは明治日本を牽引していきました。今さらながら西郷隆盛という人物を起点として近代日本が形作られてきた。といっても過言ではないのでしょうね。

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明石則実