蘇我氏に敗れ、晩年は斑鳩に籠る_蘇我蝦夷の登場
聖徳太子がどんどん新しい政策を打ち出しても、蘇我馬子は表面だって反対はしませんが、実際の実行においては非協力な態度で対抗します。さすがに、馬子は、自分の血族で子供の頃から可愛がって来た太子を除くことはせず、無視するだけでした。しかし、政治的に孤立していく太子は次第に朝廷に顔を見せることは少なくなり、晩年は斑鳩宮に籠るようになります。
蘇我氏の棟梁であった馬子が亡くなり、その子の蝦夷が権力を持つことになったからです。蘇我馬子は、太子を無視しても殺害などの強固手段を取ることはありませんでしたが、蝦夷は露骨に太子を敵視してことあれば殺害しようという姿勢を見せました。そのため、太子も政治上で独断的な行動はとれなくなり、斑鳩宮に籠らざるを得なくなったのです。実際に、聖徳太子の亡くなった後、その子息である山背大兄皇子(やましろのおおえのみこ)は蝦夷の策略によって法隆寺で自害させられています。
異説の多い聖徳太子
聖徳太子に関しては、さまざまな異論、異説がたくさんあり、実際には存在しなかったのではないかという説まであります。特にその根拠としては、中国王朝の史書にその存在が記されていない点が大きいようです。逆に法隆寺被造物であった「上宮聖徳法王帝説」という書物は日本書紀とやや内容が異なっています。また、中には聖徳太子は碧眼、すなわち目が緑色をしていた欧州人の血を引いていたという説まで出ているのです。
しかし、日本書紀などの史書には聖徳太子の存在は記されており、それがわずか百年の後のことであることを考えますと、遠いよく事情もわからない中国王朝の史書に記されていないことを理由に存在がなかったとは言えないしょう。
京都の太秦の広隆寺の弥勒菩薩に見る聖徳太子の心
聖徳太子の心は、太子と関係が深かった山背の秦氏が建てた広隆寺(京都太秦)に残されている国宝弥勒菩薩像にその温かさ、優しさが現れています。少年期の太子は必ずしも聖人とは言えない行動もありましたが、高句麗の僧慧慈を迎えてからは、それまでの豪族中心の世界から本当に仏教に帰依して、人間的に大きく成長したのです。それは十七条憲法を見ればわかります。
現代人に生きる聖徳太子の心を取り戻そう!
現代の社会は、自分たちさえ良ければいいという利己主義的な風潮が強まり、他の人に対する思いやりに欠ける社会になっています。弱者に対するいたわりの心が欠ける傾向が強く、聖徳太子が生きていれば嘆かれていることでしょう。今こそ、太子の優しい、他人を思いやる心を取り戻す時に来ているのではないでしょうか。