教養歴史

日本人の心のふるさと聖徳太子!その多才さと現代への影響力とは

十七条憲法とその意味とは_現代に通じる人間のあるべき姿

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聖徳太子は、続いて同じ604年に十七条憲法を制定します。これは、仏教の教えを土台にして、豪族たちが朝廷の臣下として行動すべき心構えを説いたもので、仏法を敬うことを要求していました。もともと、大和朝廷は古代からの神道が尊ばれ、天照大神を主神としていたため、反発も大きかったようです。仏教と儒教を基本とした中国の制度を参考にしたものであり、これも律令制に繋がるものであり、太子に対する豪族たちの警戒感はさらに高まっていきます。

但し、この十七条憲法は現代においても人間として心得なければならない基本的な考え方であり、『和を以って貴(とうと)しと為す』、『礼を以って本とせよ』、『悪しきを懲らし善を勧(すす)むるは、古(いにしえ)の良き典(のり)なり』、『信はこれ義の本なり』など、現代人にも通じる良い考え方が多く取り入れられていると言えるでしょう。私たちが忘れがちな人間としてのあるべき姿を再認識させてくれるものでした

遣隋使の派遣_「日出づる国」の心意気

高句麗の僧彗慈や秦氏から中国の隋の進んだ律令制と仏教の関係を知り、深い興味を抱いた聖徳太子は、隋に直接使いを送る決意を固めます。馬子をはじめ、豪族たちは、律令制が豪族たちの現在の世襲の地位を脅かす官僚制度であることから、反対します。しかし、607年に太子は、豪族たちの反対を押し切って小野妹子を遣隋使に指名して、難波から送り出します。有名な「日の出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙(つつが)無しや」と言う有名な言葉で始まる国書を携えて小野妹子は隋の都である長安を訪ね、返書を携え裴世清が返礼に来たと中国史書、日本書紀の両方に記載されています。

しかし、日本書紀と中国の史書の間には国書の内容に食い違いがあり、しかも中国の史書には倭皇(天皇)とあり、聖徳太子は出てこないなどの点もあるのです。そのため、実際に聖徳太子が行ったのか疑いの目を向ける学者もいます。しかし、律令制を学ばせることが主目的であった遣隋使を聖徳太子以外が送ることは考えにくく、やはり記述の差はあるにしても派遣したのはやはり聖徳太子でしょう。裴世清の帰国に合わせて高向玄理、南淵請安らの留学生が送られている点からも明らかです。

倭の五王との違いは対等な立場

日本は、中国の王朝に対して何度も使者を派遣しています。最初は、紀元前後に倭の那の国王や、未だに場所も特定されていない邪馬台国の時代にも派遣された記録が中国側に残っているのです。特に有名なのは、倭の五王が中国王朝に派遣していることですが、これらは日本側(日本書紀など)に記録はなく、中国側だけの記録だけであり、両者に記録が残っているのは、聖徳太子が派遣した遣隋使が最初でした。

倭の五王の時には、倭王は日本列島から朝鮮半島の支配権を中国王朝に認めてもらう目的で送ったと記載があり、倭王は中国王朝の属国としての立場だったのです。それに対して聖徳太子は、あくまでも日本(倭国)と中国王朝を対等に置こうとしており、隋の皇帝であった煬帝は大変怒ったと記録に残っています。しかし、当時、隋は国内の運河の大規模工事に対する国民の反発や北方からの侵入を受け、非常に苦しい状況であったために太子の遣隋使に対して腹を立てたものの、返使を出さざるを得なかったのです。

いずれにしても、それまでの日本の東アジアにおける立場は当時大きく変わろうとしていました。それを機敏に捉えた太子の見識はやはり偉大であったと言えるでしょう。

聖徳太子を取り巻く政治情勢_蘇我氏との共存と軋轢

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聖徳太子は、これまでの豪族たちの世襲による大和朝廷の支配から、天皇家中心の律令制(官僚と法律による政治)を取り入れようとしましたが、それに対する豪族たちの抵抗は大きなものでした。しかし、太子の背景には新羅などからの渡来士族たちがおり、それを頼りに実施したようでした。山背(今の京都)の秦氏などの新しい渡来氏族が太子に律令制などを勧めたのです。従来から百済移民が中心であった朝廷の渡来氏族も太子に対して反感を抱いていました。蘇我氏も百済移民の豪族との結び付きが強く、次第に蘇我氏と太子の距離は広がっていったのです。

聖徳太子と蘇我馬子の関係

聖徳太子は、蘇我氏の一族とも言えましたが、蘇我馬子が崇峻天皇を暗殺させたことから、少しずつその関係に疑問を感じ始めたようです。摂政になった当初は叔父に当たる馬子と折り合いをつけていましたが、次第に蘇我氏との政策的な違いは広がり始めます。当時の豪族たちは世襲によって朝廷における力を維持していましたが、蘇我氏はその代表でした。そして太子が、斑鳩宮を建てて移っていくのに対して一緒に移動する豪族はほとんどなく、太子が朝廷に出向く形になり、両者の関係は完全に壊れるようになったのです。

聖徳太子についてしたのは山背の秦氏などの新しい移民氏族や小野妹子などに限られました。孤立した太子は次第に朝廷に出向くことも少なくなっていくのです。

蘇我氏の権力と聖徳太子の抵抗

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大和朝廷で蘇我氏に権力が一ヵ所に集中しますと、奢りが出て、朝廷は蘇我氏、馬子に支配されるようになってしました。大王家としての天皇はないがしろにされ、崇峻天皇のように暗殺される暴挙も生まれます。現在の政治状況と似ていると言えるかも知れません。

そのような状況を、天皇家の一員として聖徳太子は憂慮し、摂政になると天皇中心の政治を目指し、そのモデルとして中国の隋の律令制を思い描くようになった結果、大使は蘇我氏と対立せざるを得ませんでした。

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