安土桃山時代日本の歴史

黄金王「豊臣秀吉」と数寄者「千利休」の関係とは?わかりやすく解説

大徳寺山門事件~利休切腹~

秀長の死から1か月後、突如、秀吉から謹慎を命じられました。その理由とされたのが大徳寺の楼門に利休の木像が置いてあったことだとされます。秀吉が来る大徳寺の門の上に自分の像を置かせたのは秀吉に対する無礼であるとされたのです。

利休は京都から追放され堺での謹慎を命じられました。古田織部や細川忠興ら、利休の弟子たちは秀吉に必死にとりなしをしますが助命はかないませんでした。利休切腹の理由は諸説ありますが、秀吉が利休を許さなかったことは確かです。利休は京都に呼び戻され、聚楽第にあった屋敷で切腹を命じられます。享年70歳でした。

戦国乱世の「黄金王」秀吉と己の美学を追求した「数寄者」利休

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戦国乱世にあってさながら日輪のように光り輝く秀吉と、自分の美学を徹底して追及し黒に美学を見出した利休。実は、金と黒は日本の伝統色でもあります。蒔絵(まきえ)などをみると、黒い漆の上に金粉や銀粉で絵を描いていますよね。高級感が一気に増すのです。金と黒が互いに協力し合うことで一つの世界を作っていたのでしょう。二人が出会うことで日本文化に新しい色が加わったのかもしれませんね。

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