安土桃山時代日本の歴史

黄金王「豊臣秀吉」と数寄者「千利休」の関係とは?わかりやすく解説

茶の湯(わび茶)の大成と国産茶器の制作

現在、茶道と呼ばれているものは千利休が大成させた「わび茶」の流れを汲んでいます。茶の湯のはじまりは室町時代後期。当時は中国や朝鮮半島から伝来した唐物(からもの)とよばれる茶器を使いました。

利休は国産の楽茶碗を積極的に使うなど道具もプロデュースして今の茶道の原型を作ります。本能寺の変で多くの名物が焼失してしまったため、新たなものを作り出すチャンスだったのかもしれません。

利休は手でこねて作る楽茶碗の素朴な風合いを好んだといいます。茶室の中で主人と客が対等に向き合う空間をつくり「一期一会」の精神でもてなすという現代茶道に通じる形がつくられるのもこの時期からです。

利休十哲~利休の高名な弟子たち~

千利休には多くの弟子がいました。織田信長の弟で彼の屋敷跡が現在の有楽町の語源となった織田有楽、秀吉のもとで武功を重ねのちに会津を支配した蒲生氏郷、名門細川家の当主で光秀の娘ガラシャの夫としても知られる大名の細川忠興など多くの武将が利休の弟子となりました。

マンガ『へうげもの』の主人公で利休の死後に茶頭として有名になる古田織部は利休とともに茶の湯の完成に力を尽くしました。織部は千利休の死後、当代一流の茶人として名をはせることになりました。利休の有名な弟子たちを利休十哲とよびます。茶の湯でナンバー1の茶頭となり多くの弟子にも恵まれた利休は、この時が絶頂期だったのかもしれません。

秀吉と利休の対立、破局

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一見、蜜月関係にあるかに見えた秀吉と利休。この二人に破局が訪れます。派手好みの秀吉とわび・さびを重んじシンプルを追求した利休。好みの違う二人の巨人の対立は避けられなかったのかもしれません。

石田三成ら秀吉の側近たちとの対立や最大の理解者であった豊臣秀長の死などいくつかの出来事が重なった結果、価値観が異なる秀吉と利休の対立が深まりました。

秀吉と利休の美意識の違い

羽柴秀吉は名を豊臣秀吉と改めます。天皇の臣下ナンバー1である関白になり天下に号令を下しました。1590年には関東の北条氏を攻め、本拠地の小田原城を開城させました。その直前、東北の伊達政宗も秀吉に従います。秀吉はついに天下統一を果たしたのです。

秀吉の美意識は「派手好み」。黄金の茶室に代表される煌びやかな輝きを追求しました。一言で言えば黄金に満たされた豪壮華麗なものを好んだのです。これに対して利休は「シンプルイズベスト」の考え方を取ります。利休が好んだのは黒の楽茶碗(黒楽)。利休は「黒は古き心」と述べました。盆の色について述べた一節ですが金を好んだ秀吉とは対照的に思えます。

朝顔に見る利休の感性

利休のエピソードとしてよく紹介されているのが朝顔の話です。当時、まだ珍しかった朝顔が利休の茶室の庭に咲いていました。満開の朝顔を想像しながら茶室に向かう秀吉。しかし、茶室前の朝顔はことごとく刈り取られていました。失望をあらわにしながら茶室に入ると、そこには花入れに一輪だけ、朝顔が生けられていました。

朝顔の数や迫力を誇るのではなく、一輪だけの朝顔にすることで朝顔の美しさを際立たせる。足し算ではなく引き算の美学なのでしょう。利休は茶の湯から邪魔なもの、煩わしいものを次々とそぎ落としていったといいます。まさに、この朝顔のように美しとも不要なものは削ぎ落したのでしょう。

最大の理解者、豊臣秀長の死

天下統一の前後、秀吉と利休の対立が目立ち始めました。1590年の小田原征伐の時、秀吉は利休の愛弟子である山上宗二を処刑します。口の利き方が悪いという理由でしたが、それにしては厳しすぎる処罰です。

また、堺商人に対して増税をしたり町の堀を埋め立てさせるなどの圧迫を加え始めました。天下人である自分に逆らう者に対しては容赦なく弾圧するという姿勢を見せ始めたのです。

こうした秀吉の姿勢を緩和させ、諸大名などとの間を取り持っていたのは弟の豊臣秀長でした。当時、大和などを支配していたので大和大納言と呼ばれていた秀長は利休からしても「話の分かる」人物です。温厚で高潔な人柄で人望を集め、秀吉を制御できたほぼ唯一の身内の死は利休の立場を危うくするものでした。

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