幕末日本の歴史江戸時代

激動の幕末(黒船来航から戊辰戦争まで)の流れをわかりやすく解説

尊王攘夷とは、天皇を敬い、外国を追い払う思想
・水戸学を元として、尊王攘夷思想は発展、志士に多大な影響を与えた
・尊王攘夷の思想は、しだいに倒幕へと結びついていく

江戸時代の終焉ー倒幕から新政府樹立へー

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続いて、倒幕の中心となった長州藩、薩摩藩と諸外国との関係、そして倒幕への流れを見ていきましょう。
長州藩は、外国を武力で撃退しようという攘夷思想が強く、また幕府を倒し天皇中心の国づくりを推し進めるという思想が主力の藩です。
一方、薩摩藩は、当初は幕府寄りの考え方で、公武合体を支持していました。ただし、当時の幕藩体制からの改革は必要とし、力のある藩も含めた政治構想を唱えていたんですね。

ですので、長州藩と薩摩藩は考え方が真逆の藩だったわけです。この2つの藩は、どのように結びき、そして、倒幕へと向かっていったのでしょうか。

長州藩は下関戦争で四国連合艦隊に惨敗

長州藩は、1863年に下関海峡を通る外国船に砲撃をします。これは、攘夷思想が強い朝廷が、幕府に攘夷の実行を命じたことから始まるんですね。幕府は諸藩に攘夷実行を伝えるのですが、それを実行したのが、尊王攘夷過激派の長州藩だったのです。
翌年、イギリス、フランス、アメリカ、オランダの四か国の連合艦隊が、報復として攻撃をしてくるのですが、長州藩は諸外国の軍事力に太刀打ちできず、惨敗します。

これを機に、攘夷の過激派であった長州藩は、攘夷が難しいことを悟り、軍事力を強化することが必要であると痛感して当時の軍事大国イギリスに接近、倒幕へと向かっていくこととなるんですね。

薩摩藩は薩英戦争で西欧諸国の軍事力を知る

一方の薩摩藩が外国と争うことになったのは、同じく1863年の薩英戦争。これは前年に起こった生麦事件に事を発するんですね。

薩摩藩の島津氏の行列にイギリス人が乱入、その人たちを殺傷したのが生麦事件。大名行列が通る際は、町民たちは道の脇に避けることが必要です。ですが、イギリス人たちにその習慣はなく、また通訳もいなかったことから、大名行列に入ってしまったのでした。大名行列に乱入することは、至極無礼な行為であり、それ故に切られてしまったのですね。
この事件を知らされたイギリスは、幕府に賠償金を求め、薩摩藩とも直接交渉を行おうとしました。しかし、交渉決裂、薩英戦争に突入します。しかし結果として、薩摩藩は西欧諸国の軍事力を身をもって知り、またイギリスも大きな被害を受けたことから、薩摩藩とイギリスの距離が近くなったのですね。

こうして、長州藩と薩摩藩は、軍事力強化が必要であること、現在の幕藩体制では西欧諸国にかなわないことを知り、倒幕へと意識が変わっていくことになります。

尊王攘夷過激派長州藩と公武合体派の薩摩藩

しかしながら、同じような経験をした長州藩と薩摩藩は、すぐに手を結んだわけではありません。同時期の国内の様子を見ていきましょう。

攘夷の過激派である長州藩は、朝廷を利用して攘夷を幕府に促すよう働きかけていました。それをよく思わなかった会津藩と薩摩藩という公武合体派の藩たちは、時の天皇である孝明天皇とともに、長州藩や長州藩と親密であった三条実美ら公家を京都から追い出します。これが、八月十八日の政変と呼ばれるものですね。
これによって追い出された長州藩の志士らが、京の都に舞い戻ろうと潜伏していたところに、新選組が襲撃したのが、有名な池田屋事件です。新選組は幕府側の武装集団であり、会津藩の松平容保の庇護を受けて結成されたんですね。
そして、襲撃された長州藩は、京で会津藩と薩摩藩と争うことになりますが、これが禁門の変または蛤御門の変と呼ばれるものです。

長州藩はこの変で敗北し、朝敵つまり、朝廷の敵と見なされ、江戸幕府から長州征伐を受けることになってしまうのでした。ちなみに、この長州征伐の参謀として加わっていたのが薩摩藩の西郷隆盛。このようなこともあって、長州藩と薩摩藩は犬猿の仲となるのですね。

薩長同盟で薩摩と長州が手を結ぶ

さてそんな薩摩藩ですが、幕府への改革要求は通らず、諸藩が政治に参加する構想はうまくいきません。一方の長州藩は、外国からの攻撃を受け、はたまた朝敵と見なされるなど、かなり厳しい状況に追い込まれます。長州藩は、武器の購入も自由にできなくなりました

そんな薩摩藩や長州藩を結び付けようと動いたのが、土佐藩。1866年、薩摩と長州は秘密裏に薩長同盟を結びました。仲立ちしたのが、坂本龍馬ですね。その後、幕府は2回目の長州征伐を行いますが、薩長同盟により外国の武器や艦船を手に入れた長州藩は、幕府軍に勝利を収めました。

ちょうどその頃、14代将軍家茂が急死し、慶喜が15代将軍に就任。また、長州藩を京都から追い出した孝明天皇も崩御。そんな中、行われたのが四侯会議です。ここで第二次長州征伐後の長州藩の扱いや、西欧諸国との条約で開港を約束していた神戸港の扱いについて話し合われました。
薩摩藩は、ここで諸藩による政治参加、公武合体政策を推し進めたかったのですが、失敗に終わってしまいます。これによって、一気に倒幕へと舵を切ることになるんですね。

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みほこ