幕末日本の歴史江戸時代

激動の幕末(黒船来航から戊辰戦争まで)の流れをわかりやすく解説

強引に推し進めた井伊直弼への反発と暗殺

ちょうどこのころは、12代将軍である徳川家慶の跡継ぎをどうするかという、将軍継嗣問題も起こっていました。
直弼は、朝廷の許可を得ずに不平等条約に調印、また13代将軍を決定したわけですが、強引にすすめたと反発を起こす者も出たのです。その者たちを処罰したのが、安政の大獄。松下村塾で有名な、吉田松陰が処罰されたのも、この出来事ですね。

100名以上の者たちが処罰の対象となったのですが、これに対してもまた反発が起こり、井伊直弼暗殺されます。それが江戸城の桜田門で起こったことから、桜田門外の変と呼ばれているんですね。

幕府の権力を取り戻すためにすすめられた公武合体の動き

さて、大老という最高職の井伊直弼が暗殺されたことにより、幕府の権力に疑問が抱かれる状況になるわけですが、さらに、朝廷の許可を得ずに欧米諸国との条約に調印したことで、朝廷との関係も悪化します。

そこで考え出されたのが、公武合体という動き。朝廷と幕府の関係を良好なものにし、幕府の力を回復させようというものですね。
その政策の一つが、和宮降嫁という内親王と将軍家の結婚なのですが、これもやはり政略結婚だとして反発を招いてしまうのです。そして、この政策を推し進めた老中安藤信正が襲われたのが、坂下門外の変。襲ったのは、尊王攘夷派と呼ばれる水戸の浪士でした。

・日米和親条約で開港、鎖国が終わる
・不平等条約や将軍家の跡継ぎを強引に決めた井伊直弼は暗殺される
・幕府は権力を回復させるために公武合体を目指すが、尊王攘夷派の反発を受ける

幕末に広がった尊王攘夷の思想

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幕末の思想として尊王攘夷というものがよく出てきますが、どのようなものなのでしょうか。
これは「尊王」と「攘夷」という2つの言葉が組み合わさってできたもの。尊王とは、王を敬う、日本で王とは天皇のことを指しますので、天皇を敬うことを言います。
そして攘夷とは、外国を追い払うという意味なんですね。この「夷」という文字は、異民族を示しており、古代中国で、外部民族を「夷狄」と称していたことに由来しているんですよ。

この尊王攘夷思想の元は、辿っていくと水戸学に行きつきます。それでは、水戸学について見ていきましょうね。

尊王攘夷の思想は水戸学生まれ

水戸学とは、水戸藩で広まった学問・思想を言います。
水戸黄門で知られる徳川光圀は、『大日本史』という歴史書の編纂を行ったのですが、日本の初代天皇とされる神武天皇から後小松天皇までを扱う大事業となりました。この編纂には、数多くの学者が携わり、その中で水戸学が形成されていったのですね。

天皇ごとに編集されていることからわかる通り、あくまで日本の「国王」という位置づけは天皇。幕府は政治を行っていますが、天皇が将軍の上にあり、敬うべき対象であることは、昔から変わりないのです。
これは中国から入ってきた朱子学が、君臣関係・身分秩序を大事にしており、これが幕府の思想の基礎となしていたこと、この思想を持つ多くの学者たちが編纂事業に関わっていたことも、大きな要因でしょう。

尊王攘夷思想が倒幕と結びついていく

この水戸学の思想は、次第に政治や外交問題にも影響を及ぼすようになります。そして、尊王攘夷という思想を生み出すことになり、志士たちにも大きな影響を与えたのですね。

さて、尊王攘夷の過激派といって思い浮かぶのはやはり長州藩。現在の山口県にあたります。海に囲まれており、さらに大陸と近い場所ですね。それゆえに、西欧列強の軍事力の脅威にさらされた場所でもあったのです。

倒幕・明治維新期に活躍した志士たちは、長州藩、薩摩藩、土佐藩などの出身者。それは、どこも海に囲まれた土地で、外国の力を身をもって知った藩です。このままでは日本は取り残されてしまう、天皇中心の強い国づくりが必要だという想いが強かったのも頷けますよね。

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みほこ