フランス革命を忘れたの?ルイ18世とシャルル10世
長い逃亡の末、「とりあえず誰でもいいから王様を」という感じでフランス国王の座に就いたルイ18世。しかし久しぶりに戻ったパリの街は、以前とは様変わりしていました。
最初こそ歓迎されたルイ18世でしたが、王政復古の熱が冷めると、周囲の評判は右肩下がりに。そんな空気を嗅ぎ付けたのが、島流し状態だったナポレオンでした。
ナポレオンが一時的に復活(百日天下)したため、ルイ18世は再び逃亡。ナポレオンが再び失脚すると、今度こそしっかりしろよフランス、という声が聴き漏れる中、ルイ18世がもう一度王位に就きます。
そして、ルイ18世が亡くなった後、弟のシャルル10世が即位。シャルル10世は絶対王政ともとれる政治体制を強行し、国民の反発を受けるようになります。
あのフランス革命を忘れてしまったのか……。亡命帰属を保護したり、王政に批判的な言論を弾圧したりと、かつての記憶を呼び起こすような振る舞いを続けるシャルル10世。金遣いも荒い。これは危険だ!またあの時代に逆戻りか?フランス国内に不穏な空気が漂います。
前置きが大変長くなりましたが、ここで起きたのが「七月革命」です。
七月革命勃発!「栄光の3日間」とその後の動き
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フランス革命からわずか30年ほどの間のフランスは紆余曲折。三部会を開いたり、皇帝が誕生して領地を広げまくったり、またブルボン朝を復活させたり、復活させたブルボン朝が必要以上に王様ぶってイエローカードが出たりと、とにかくあわただしい。積もりに積もった不安や不満は、革命という形であらわになります。こうして起きた「七月革命」。経緯とその後の影響について詳しく見ていきましょう。
逆戻りかよ!復活した王政に市民の不満は爆発寸前
ウイーン体制により復活したフランス王政。
他国ともバランスをとりながら国際秩序を取り戻すはずだったのに、ルイ18世は今一つシャキッとせず、シャルル10世はフランス革命前の王政を思い出させるような絶対君主政治をやろうとし始めたため、フランス国内では王政への反発が強まっていました。
シャルル10世は国民の不満をよそに向けるため、オスマン帝国領のアルジェリア(アフリカ大陸北部)への侵攻を開始します。
それでも国民の不満はおさまらず、というか、火に油状態で不満は増大。なかなか鎮まらない不満に、議会の強制解散や選挙権の縮小を命じる勅令を発布して締め付けにかかりますが、こんなことをして状況がよくなるはずもありません。
1830年7月27日:パリ市街地を占拠する庶民たち
ついにパリ市民は立ち上がりました。
1830年7月27日、学生や労働者たちによって、市内のあちこちにバリケードが築かれ始めます。
民衆の数は時間の経過とともに増え、ついに暴動勃発。市庁舎が占拠され、市街地のあちこちで戦闘が始まります。
暴動の鎮圧にあたっていた軍隊は士気が低く、戦況は常に市民優勢に。パリ中心部に位置するテュイルリー宮殿も占拠され、パリ市内は革命に沸く市民で溢れかえります。
銀行理事を務めたこともある銀行家ジャック・ラフィットが自宅を司令部として提供するなど、多くのブルジョワジーが積極的に市民たちを後押し。勝利は目前に迫っていました。
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1830年7月29日:ルーブル宮陥落・国民王の誕生
民衆はついにルーブル宮殿に到達。7月29日、塔の上に三色旗が掲げられました。
ただの暴動だろう?と傍観していたシャルル10世は、事態をようやく理解し、慌てて勅令を引っ込めようとしますが、もうどうにもなりません。兄(ルイ16世)と同じ目にあうことを恐れたシャルル10世は国外逃亡。民衆に勝利がもたらされました。
フランスでは七月革命が起きたこの3日間のことを「栄光の三日間」と呼ぶのだそうです。
こうして七月革命は幕を下ろします。
では次の国王は?銀行家ラフィットを押す声もありましたが、結局、ブルボン家の親戚筋オルレアン家の出でブルジョワ派のルイ・フィリップという人が王位に就くことになりました。王室側ではなくブルジョワジーの立場で王位についたことから「ブルジョワ王政」「国民王」と呼ばれることもあります。