室町時代日本の歴史

室町幕府に反抗し続けた「鎌倉公方」とは?成り立ちや分裂など経緯をわかりやすく解説

享徳の乱を起こした成氏

享徳3(1455)年、関東管領・上杉憲忠(うえすぎのりただ)を暗殺した成氏は、幕府に対して享徳の乱と呼ばれる反乱を起こします。これは以後約28年にもわたって続く大乱となりました。

成氏のもとには北関東や千葉の豪族たちが終結し、関東管領をつとめる上杉氏には幕府が味方しました。成氏は実に行動力にあふれており、あちこちの前線に赴いては兵を鼓舞し続けます。しかし、こうした行動によって、鎌倉を離れていた隙に、成氏は本拠地・鎌倉を制圧されてしまうのです。

行き場を失った成氏は、味方の豪族たちの勢力下にあった下総(しもうさ)の古河に移りました。これで、鎌倉公方は「古河公方(こがくぼう)」と称するようになったのです。

2人の鎌倉公方が並立

一方、幕府は成氏に代わる新たな鎌倉公方として、当時の将軍・足利義政(あしかがよしまさ)の異母兄である足利政知(あしかがまさとも)を派遣することとしました。

しかし、成氏の勢力はいまだ健在で、政知はとても鎌倉に入れるような状態ではありません。そこで、ひとまず伊豆の堀越(ほりごえ)に留まることとし、ここで「堀越公方(ほりごえくぼう)」となりました。

本拠地とした地名に基づき、古河公方と堀越公方と呼ばれるようにはなりましたが、元をただせば両者とも鎌倉公方。2人の鎌倉公方が並立するという、奇妙な構図となってしまったのです。

鎌倉公方の消滅と古河公方の末路

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享徳の乱がなんとか終結すると、鎌倉府と鎌倉公方の名は実質上消滅することとなり、古河公方と堀越公方が残されました。その後、残ったのは古河公方ですが、やがて関東の戦乱の渦に巻き込まれ、内紛が続いたこともあり、後北条氏の進出を許して傀儡化していきます。その末路はどんなものだったのか、ご紹介しましょう。

享徳の乱がついに終結

享徳の乱は一進一退の様相を呈し、まったく終息の気配を見せません。そんな中、足利成氏と対立し、乱を戦っていた関東管領・上杉氏の内部は、家臣の長尾景春(ながおかげはる)が反乱を起こすなど、収拾がつかなくなっていました。

両者が戦いに疲れ、和睦という二文字が脳裏をちらつき始めたころ、成氏は幕府と和睦を結びます。これが、文明14(1483)年の都鄙合体(とひがったい)で、成氏は関東統治を続け、政知が伊豆を統治することで話がついたのです。

この間に、実は京都では一大大乱となる応仁の乱が始まり、すでに終結していました。応仁の乱は戦国時代の到来を予感させるものでしたが、関東では享徳の乱が戦国時代の幕開けを告げるものだったのです。国を統治するはずの幕府の一部である鎌倉府によって、戦国時代に至る道筋が付けられたことは、何とも奇妙な感じがしますよね。

古河公方から小弓公方が分裂

その後、鎌倉公方という名は消え、古河公方と堀越公方が残りました。しかし、堀越公方は、政知の死後に内紛が生じ、やがて滅亡します。この内紛を鎮圧するために幕府から派遣されたのが伊勢宗瑞(いせそうずい/北条早雲)で、彼はここから関東へと侵略を始めていくのでした。

一方、古河公方は依然として力を持ち続け、上杉氏が内紛で力を削られていくさまを見ていました。上杉氏は山内上杉家(やまのうちうえすぎけ)と扇谷上杉家(おうぎがやつうえすぎけ)の2つの流れが対立していたのですが、成氏の跡を継いだ足利政氏(あしかがまさうじ)は関東管領と結び、公方と関東管領の構図を回復させたのです。

しかし、政氏の息子たちは内紛を起こします。古河公方となった高基(たかもと)に対し、弟の義明(よしあき)は反抗し、真里谷武田(まりやつたけだ)氏を頼り、小弓城を本拠地として「小弓公方(おゆみくぼう)」を名乗るようになるのです。古河公方と小弓公方それぞれについた武士団の抗争も激化し、やがて伊勢宗瑞が起こした後北条氏の介入を招いて行くのでした。

後北条氏や長尾景虎の介入により、傀儡化していく

やがて古河・小弓公方の分裂は解消されましたが、高基の子・晴氏(はるうじ)北条氏康(ほうじょううじやす)と対立して敗北し、介入を許してしまい、元々の嫡子を廃し、後北条氏の血を引く息子の方を後継者とするなど、力を失っていきました。

廃された嫡子・藤氏(ふじうじ)は、古河公方となった弟の義氏(よしうじ)に反発すると、長尾景虎(ながおかげとら/後の上杉謙信)の支援を受けて古河を奪還します。しかし、景虎が国に戻ると、後北条氏の攻撃を受けて藤氏は捕虜となってしまいました。そして義氏が復帰するのですが、彼はもはや後北条氏の傀儡としてのお飾りに過ぎなかったのです。

一時は幕府に反抗するほどの力を持った鎌倉公方、そして古河公方。戦国の荒波にもまれ、その存在感は失われていったのでした。

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