室町時代日本の歴史

歴史用語「国人」っていったい何?素朴な疑問をわかりやすく解説

一時は四国全域を支配した戦国大名【長宗我部元親】

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不明。 – 秦神社所蔵品。[1], パブリック・ドメイン, リンクによる

土佐国(現在の高知県)は元々、守護細川氏の支配下にありましたが、応仁の乱など相次ぐ畿内の争乱に巻き込まれ、その威勢は徐々に失われていきました。そのため土佐の国人たちは、それぞれ自分たちの領土を拡大するべく戦いに明け暮れたのです。

土佐国司一条氏の権威をバックに力を伸ばしていたのが長宗我部氏でしたが、周囲の国人たちの反発を受けて衰退。没落の憂き目に遭います。

1560年、父の死とともに家督を継いだ元親は、宿敵だった本山氏を倒し、さらに周辺の諸勢力を次々に屈服させていきました。土佐西部の一条氏を放逐するに至って土佐全土を征服し、名実ともに戦国大名へと成長を遂げたのです。

土佐統一後も軍勢を派遣して四国全土を席巻し、阿波・讃岐・南伊予といった地域を支配下に収めていきました。しかしここで中央の勢力とぶつかることになります。それが豊臣秀吉でした。

1582年、豊臣の大軍による四国征伐を受け、もろくも敗れ去ってしまいます。土佐一国は安堵されたものの、豊臣政権の幕下大名として生きることを余儀なくされたのです。

現在まで血統を残す北近江の雄【浅井長政】

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不明File:Azai nagamasa.jpg 高野山持明院蔵, パブリック・ドメイン, リンクによる

北近江の守護大名は京極氏でしたが、相次ぐ家督争いや内訌などによって昔日の勢いは失われていました。それに代わって力を付けていたのが浅井亮政でした。亮政は一介の国人領主に過ぎませんでしたが、次第に京極氏を圧迫して北近江の主導権を握りました。

亮政の死によって跡を継いだのは久政でしたが、京極氏の反撃や南近江の六角氏の圧迫などにより、徐々に苦境に立たされることになります。結果的に六角氏の傘下に入らざるを得なくなり、浅井氏は衰退の時を迎えました。

しかしこうした浅井氏の処遇に不満を持ったのが長男の長政でした。六角氏との対決を決意した彼は戦いを挑み、1560年の野良田合戦で大勝利を収め、浅井氏を再び戦国大名に返り咲かせたのです。

その後、織田信長と婚姻関係を結ぶなど家の繁栄のために尽力しますが、織田軍による越前攻めの際に信長を裏切ってしまい反目してしまいます。1573年、朝倉氏滅亡に続いて居城の小谷城も攻められてしまい、浅井氏は滅亡。29歳の若さで自害しました。

しかし長政が残した血統はその後も引き継がれていきます。彼の次女お江はのちに徳川秀忠へ嫁ぎ、3代将軍家光を生んでいますし、娘の和子も皇室へ入内していますね。また同じく娘の完子は九条家に嫁ぎ、その血筋は昭和天皇をも生んでいるのです。

地域運営を担った国人たち

image by PIXTA / 26060119

室町~戦国時代は日本の治安が極度に悪く、絶えずどこかで戦乱が起こっていたために、中央の威令は地方へ届くことがありませんでした。そこで地方の警察機能行政を担っていたのが各地の国人層なのです。彼らは伝統的権威に対して奉仕するいっぽう、自らの存在意義である土地と領民を守るべき義務がありました。そういった意味では、日本の地域運営を担っていたのは誰あろう国人たちではなかったでしょうか。

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明石則実