ソビエト連邦ヨーロッパの歴史ロシア

ソ連の歴史の転換点「スターリン批判」をわかりやすく解説!

東欧諸国の変化

スターリン批判を行ったことによってソ連の影響下にあった東ヨーロッパ諸国では、ソ連に対する支配から逃れようとする国が続出していくようになります。例えばポーランドの場合では1956年にボスナンにて給料の未払いに端を発する大衆デモが自由化・脱社会主義化を求める大衆暴動へと発展一時期は社会主義政権が打ち倒される可能性もあるデモにまでになりました。しかし、このポズナン暴動はポーランド軍が投入されて鎮圧。

しかし、スターリンがいなくなったことでポーランドの社会主義政党の支配が揺らいで行ったということは事実であり、ポーランド統一労働者党はこのポーランドでの政策の失敗を正式に認める形となり非スターリン化政策を推し進めていきました。

一方、ハンガリー人民共和国ではスターリン時代に弾圧されていた民衆やインテリなどたちが釈放されることになりましたが、それに伴って脱スターリン化を超えた脱ソ連化を目指していくようになります。ハンガリーの民衆は蜂起するために計画していましたがこれをソ連が察知。10月23日にハンガリー動乱と呼ばれる民主化を求める民衆蜂起が起こるとソ連はハンガリーの社会主義政権を倒されないようにするためにただちにソビエト連邦軍を出動させ、最終的に鎮圧しました。

ソ連軍はハンガリー勤労者党を解散させてハンガリー動乱の責任を負わせる一方で、ソ連に二度と逆らわないように支配を強化していくようになります。

ユーゴスラビアの関係の変化

社会主義政権は基本的にはスターリンに追随する形で存在していましたが、その中でも異彩を放っていたのがチトー率いるユーゴスラビアでした。

ユーゴスラビアはスターリンの支配を全く受けることなくスターリンとの関係が悪化。いわゆる国交断絶となっていましたが、スターリンが亡くなってフルシチョフの時代になるとスターリン批判ののちに関係改善の道を歩みだすようになります。

両国は首脳会談を実現させていき、ソ連とユーゴスラビアの雪解けを歩んでいくようになりますが、その直後に行われたソ連の会議にユーゴスラビアは不参加。さらにはソ連の覇権主義と官僚主義を批判していくようになり、チトーはソ連とは全く違うユーゴ独自の社会主義路線である自主管理社会主義を打ち出していくようになり、ソ連とは徐々に距離を置いていくようになりました。その結果、ソ連とユーゴの関係はふたたび悪化することとなったのです。

中ソ対立

スターリン批判は中華人民共和国との関係に深刻な亀裂を生み出してしまいました。フルシチョフのスターリン批判はすぐさま中国にも伝えられることになり、そこで毛沢東はスターリンは7分の正しさ、3分の誤りという評価を打ちだしていくようになります。3分も誤りがあったらダメだと思いますが、毛沢東からしたらスターリンは社会主義には必要不可欠だと思っていたことでしょう。毛沢東はフルシチョフのスターリンの全面否定を徹底的に批判。スターリンを「真のレーニン主義者」としたうえでソ連への批判を強めていくことになります。

毛沢東は1950年代後半ではフルシチョフがキューバ危機以降アメリカに接近していくようになっていき平和共存政策を打ち出していくことになるのですが、それに対して反発を強めていき1960年に中ソ対立が表面化していくように。領土問題も相まってソ連と中国の関係は著しく悪化。1960年代から1980年代にかけて中国とソ連はことあるごとに対立することとなりました。これをいわゆる中ソ対立といい、ここから中国はソ連と距離を置く形で独自の道を歩んでいくことになります。

しかし、中国共産党の中ではスターリンみたいに死んだ後に非難されると困るということからスターリンが亡くなったあとで行われた初めての党大会である中国共産党第8回大会では個人支配を緩めていき、綱領から毛沢東思想の言葉を削除。

さらにはある程度の批判や言論の自由を確保する目的で政治運動である「百花斉放百家争鳴」を行っていくようになり、恐怖で民衆を支配していた中国は一時的に内政が良くなっていき、一定の非スターリン化を進めることになります。

北朝鮮の独自路線

朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)ではすでに金日成首相はすでにスターリンのような支配体制を築き上げていました。というのも北朝鮮といく国自体は元々ソ連の影響下にあった地域がそのまま独立したものであり、かなりスターリンの影響を受けているような国でした。さらにスターリンが亡くなったときにはまだ朝鮮戦争が繰り広げられており、それどころではなかったのです。ソ連では北朝鮮の過激な個人主義が問題とされていくようになっていき、金日成はそれに対してソ連にあまりにも偏っている政策を無しにする発言を繰り広げていくようになります。

金日成は朝鮮労働党はスターリンのような個人崇拝は行われてはおらず、集団指導の原則が守られてきたと主張。さらに朝鮮労働党第3回大会で金日成はソ連の影響をそのまま受け入れる体制を批判していくようになり、人間こそが社会の主役という主体の構築を主張。のちの主体思想の原型の一つとなる行動を起こしていくようになります。

さらには党内で中国の影響を受けている延安派とソ連の影響を受けているソ連派の人たちが金日成よ個人崇拝を批判していくようにりましたが、金日成は延安派とソ連派の幹部たちをことごとく粛清。いわゆる8月宗派事件によって金日成の個人崇拝が確立することとなり、北朝鮮とソ連との関係は一気に冷え切ることとなりました。

その後金日成は自身の子孫に北朝鮮を注がせる意向を示していくようになり、敵対する人々を徹底して弾圧していくようになりました。

スターリン批判は東側諸国に影響を与えた

image by PIXTA / 30797424

スターリン批判をしたことによって東側諸国はいろんな方向に進んでいくことになりました。スターリン批判はまさしく東側諸国の歴史を大きく変えた出来事だったのですね。

1 2
Share: