室町時代戦国時代日本の歴史

関東の覇者「北条氏政」とは?なぜ最後まで秀吉に抵抗した?わかりやすく解説

余談:北条氏政と汁かけ飯

NHK大河ドラマ『真田丸』で北条氏政役を演じた高嶋政伸さんが、始終、お椀に入った「汁かけ飯」をすすっていたシーンをご記憶の方もいらっしゃると思います。

北条氏政の有名なエピソードの中に「二度汁かけ飯」というものがあるのです。

それはまだ、父・氏康が健在だったころの話。食事のとき、ご飯に汁をかけて食べようとした氏政が、一度汁をかけ、足りないなぁと思ったので後から少し汁をかけ足したのです。

それを見た父・氏康が一言。「飯にかける汁の量も量れんとは、(そんなことでは国を治めることなどできるわけがない)北条家もわしの代で終わりか」と嘆いたのです。

こういうことが実際にあったかどうか、実ははっきりとはわかっていません。戦国武将の逸話の中には、その人物像をより分かりやすく伝えるために後世に創作されたものもあるようなので、あくまでも逸話として見たほうがよさそうです。

ただ、結果的に、豊臣秀吉に攻め落とされ小田原城を守り切ることができなかった氏政を憂いで、このような逸話が有名になってしまったものと考えられています。

戦国時代のやり取りを見てみると、かなり大胆な決断をしながら自国を守り続けていたことがわかる北条氏政。勝てば官軍、などと言いますが、豊臣に負けたことで、「プライドばかり高くて優柔不断なダメ殿様」というイメージが定着してしまったことは残念でなりません。

北条氏政と豊臣秀吉:小田原征伐とその後

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武田や上杉としのぎを削りながら大きく成長していった北条氏政。隣国との争いにあたふたしているだけではどうにもならないほど、時代は大きく動いていました。相模だ甲斐だ越後だとか、そんなの小さい小さい。俺は天下をひとつにする、と突拍子もないことを言い出し、どうやらそれが戯言ではなく実現しそうだということがわかったのです。その人物こそ織田信長。そしてその思想を継承した豊臣秀吉。この事態に、北条氏政はどう立ち向かっていったのでしょうか。

織田に従属した後、突然の引退宣言

信玄がこの世を去っても武田や上杉とのにらみ合いが続き、頑張ってきたつもりでしたが事態はやや劣勢。ここで北条氏政は大きな決断をすることとなります。

天下統一を掲げてメキメキ頭角を現してきた織田信長への従属です。氏政は織田信長に接触して、同盟ではなく付き従うと申し出ます。

信長もこれを承諾。氏政は織田家という後ろ盾を得て、相模国を守ろうとしたのです。

一説には、信長は氏政のことをあまりよく思っていなかったとも言われていますが、これは信長の性格からくるものかもしれません。

織田への従属を決めた後、氏政は息子の氏直に家督を譲って隠居を宣言。上杉や武田とのにらみ合いが続いている最中の、突然の引退劇でした。戦いに疲れてしまったのでしょうか……。

実はこのとき、息子・氏直は織田家から嫁をもらうことになっていました。この隠居宣言はおそらく「織田の娘の嫁ぎ先は北条の当主である」ということにするために、急いで氏直に家督を譲ったのではないか?と考えられています。

氏政は織田との関係を強化することで、国の安泰を願ったのでしょう。

上洛なんかしたくない……秀吉を怒らせる

しかししかし、この後間もなく、織田信長は本能寺にて、明智光秀に襲撃されてしまいます。

一寸先は闇。波乱の戦国時代、何が起きるかわかりません。昨日の味方は今日の敵。織田の家臣たちは分裂、誰と組むべきか、誰が信長の後釜に座るのか戦々恐々です。

織田信長は全国に勢力を伸ばしており、氏政と同じように従属を決めて一息ついていた武将があちこちにいたので、どの武将たちも迅速かつ慎重に、速やかに行動を開始します。

本能寺の変の直前、信長は甲斐征伐に動いていましたが、信長亡き後、甲斐や関東、信濃などの国々は騒然。大混乱に陥ります(天正壬午の乱:てんしょうじんごのらん)

北条氏政も相模を守るため、織田直属の家臣であった滝川氏と対峙。攻撃は最大の防御とばかりに勢力を拡大。徳川家康をはじめ、周辺勢力と激しい戦いを繰り広げていきます。

関東甲信越の騒乱は、北条と徳川が歩み寄ることで一応決着しますが、この間、信長の後釜に、羽柴秀吉(豊臣秀吉)がちゃっかり。諸大名たちは次々と秀吉へ従属していきます。

家康の勧めもあって、一応は秀吉に従う姿勢は見せたものの、氏政個人としては秀吉拒否状態に。一方の秀吉は、有力大名は全員、自分の前に出てきて頭を下げさせたいところですが、氏政はなかなか上洛してきません。

のらりくらりしているうちに、日が経つにつれ、秀吉の天下統一はゆるぎないものに。北条氏は孤立状態になってしまいます。

「これ以上は待てん!北条を攻める!」秀吉は激怒し、1590年(天正18年)、全大名を動かし「小田原攻め」に動いたのです。

難攻不落の小田原城が秀吉の手に落ちる時

武田・上杉を相手に、今まで何度も籠城戦を繰り広げ、突破してきた難攻不落の城・小田原城。

北条氏といえば、関東一帯を治め240万石を誇る巨大勢力です。

豊臣ごときに落とされるわけはない、と、考えていた氏政ですが、今回ばかりは劣勢も劣勢。豊臣連合軍20万もの軍勢が小田原周辺に集結し、「日本全国の大名vs北条」という様相になります。

これまで、ピンチに陥るたびに「敵の敵」とうまく同盟を組み、外交述で乗り切ってきた氏政も、今回ばかりはどうにもなりません。

相模国の各地に点在していた北条の出城も次々と落とされ、味方の勢力は削がれていきます。

残るは小田原城のみ……。

最後まで城から出ようとしなかった氏政。ついに小田原城は陥落しました。

息子であり当主である氏直が、家臣たちを助けてほしいと嘆願したことが秀吉の心を動かし、氏直自身は命だけは助かります。

しかし氏政は、家康による助命嘆願が行われたにもかかわらず、秀吉に許されることはなく切腹。相模を守り小田原城で散った北条氏政は53歳の生涯を終えたのでした。

なぜ最後の最後まで秀吉に従わなかったの?

それまでの氏政なら、先を読んでよりよい相手に従属する道を選んだはず。しかし最後まで、豊臣秀吉に屈することはありませんでした。

なぜ、上杉や武田と渡り合ったときのように、素早く行動せず、上洛を先延ばしにして時間稼ぎのようなことをしたのか……。この頃の氏政の心境を記した資料は残されておらず、真相は不明。現代でも様々な説が語られています。

他の大名たちだって、心の底から秀吉を尊敬していたわけでもなかったでしょう。今はひとまず長いものに巻かれ、時を待とう……。そう思っていた大名だって大勢いたはずです。

でも、氏政は結局、秀吉のもとへは行きませんでした。

そして結果的に、後世の評価として「氏政は無能」「氏政が北条を滅ぼした」と言われるようになってしまうのです。

なぜ秀吉に従わなかったのか、その答えはわかりませんが……北条氏が治めていた相模国が京都や大坂と離れていたため、秀吉の脅威に気付くのが遅れたのでは、との見方もあります。

東国武士の特性といったところでしょうか。

もし、北条が秀吉に従い、小田原征伐が起きなかったら……。もしかしたら、秀吉は家康を江戸に追い払わなかったかもしれないし、日本の歴史は大きく変わっていたのかもしれません。

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