アルマダ海戦の経緯
フィリップ・ジェイムズ・ド・ラウザーバーグ – 不明, パブリック・ドメイン, リンクによる
スペインとイングランドの関係は極度に悪化し、両国の戦いは避けられない状態となりました。イングランド海軍を率いるドレークはスペイン沿岸に先制攻撃を仕掛け、スペインを混乱させます。これに対し、スペインは無敵艦隊を編成しイングランドに向けて出撃させました。両軍はドーバー海峡で何度か交戦。決定的な打撃を与えられないまま、無敵艦隊は暴風によって打撃を受け、スペインへと撤退します。
ドレークによる先制攻撃
スペインとの対決が避けられないと考えたエリザベス1世は海軍を招集します。しかし、スペインに比べるとまだ未発達な海洋国家だったため集めることができる戦力は限られたものでした。イングランド艦隊は34隻の王室所属艦隊と163隻の武装商船(その大半は海賊船)からなります。
イングランド軍の副司令官となったのは海賊行為をしながら世界一周航海を成し遂げたキャプテン・ドレーク、こと海賊のフランシス・ドレークでした。
ドレークはイングランドとスペインでは戦力に差があると考え、決戦の前に少しでも相手を消耗させるべく行動を開始します。ドレークはスペインのカディス港やポルトガル沿岸を焼き払い、スペイン軍の物資に大損害を与えました。
無敵艦隊の編成と出撃
ドレークの襲撃を受けたスペイン側は、艦隊の編成見直しを迫られました。もともと、スペイン艦隊の主力は相手の船に乗り込んで戦う手漕ぎのガレー船でした。しかし、ガレー船はドレーク船団の前に全く歯が立たないことが判明します。
スペインは波が高い大西洋での戦いに適した喫水線の高い帆船を用意。当初主力にしようと考えていたガレー船から帆船へと変更しました。ガレー船と帆船を混合させた船も投入しましたが、こちらはうまくいきません。
大西洋向きに艦隊を編成しなおしたスペイン艦隊は、「最高の祝福を受けた大いなる艦隊(至福の艦隊)」と命名されます。無敵艦隊というのは、後世の歴史家が与えた名称で、当時はそのように呼ばれていませんでした。
1588年、無敵艦隊はスペインに併合されていたポルトガルのリスボンを出港。イングランド方面に出撃しました。
ドーバー海峡でおきた両軍の戦い
ネーデルラントに向かったスペイン艦隊の数は130隻です。迎え撃つイングランド艦隊は200隻でした。スペイン艦隊の砲数はイングランド艦隊を上回りましたが、射程距離が短い小型砲が中心です。一方、イングランド艦隊は中型砲が中心でした。
1588年7月31日から同年8月8日まで、スペイン艦隊とイングランド艦隊はドーバー海峡で何度か戦いになります。プリマス沖海戦やポートランド沖海戦では、イングランド艦隊が戦局を優位に進めます。
接舷して白兵戦で勝負を決めようとするスペイン艦隊。片や、距離をとって砲撃船を中心に行い白兵戦を避けるイングランド艦隊。戦闘はイングランド優位に進みましたが、スペイン艦隊を壊滅させるには至りませんでした。
無敵艦隊の壊滅
ドーバー海峡での一連の戦いで、イングランド側は大きな損害を受けませんでした。スペイン艦隊も10隻前後を失いましたが、壊滅的な打撃とは言えず、依然として大きな戦力を維持します。
とはいえ、連日の戦闘でスペイン艦隊は疲労の極みにあり、これ以上の戦闘は困難でした。そのため、司令官のメディナ=シドニア公は艦隊をスペインに帰すと決断します。
1588年8月下旬から9月にかけて、スペイン艦隊はスコットランドやアイルランドの周辺海域を航行していました。無敵艦隊の船員たちにとって、この海域は全く知識がない道の航路。多くの船が進路を適切にとることができず、分散してしまいます。
バラバラになってしまった艦隊は各所で難破・上陸しては、現地の人々やイングランド兵に見つかり、掃討されました。結局、スペインに帰り着いたのは全体の半数ほどになってしまいます。戦闘よりも、戦闘後の被害がはるかに多い戦いとなりました。
アルマダ海戦の影響
アルマダ海戦は、最終的にイングランドの勝利と語られることが多いです。その理由は、戦術面でスペインよりも優れていたことや、戦争の後にイングランドが力をつけ、やがて、世界の海を支配する覇権国となったからでした。アルマダ海戦は、いったいどのような影響を後世に与えたのでしょうか。