幕末日本の歴史江戸時代

戊辰戦争の台風の目「河井継之助」とは?藩政改革に邁進した長岡藩の家老の人生を解説

5-3長岡藩の立場は中立

3月1日に江戸で会津藩など諸藩の会合があり、継之助は中立の立場を取ると宣言します。蒸気船に会津と桑名藩士を同伴し帰国したことが災いし、新政府に両藩に組していると見られたのです。旧政府と新政府のどちらにつくか、長岡藩の運命を決める選択を迫られます。

重臣たちは恭順派で、戦わず降伏するべきと回答。しかし、藩主忠訓と継之助が選んだのは、会津討伐は不正義と武士の意地を貫くことでした。官軍に逆らい朝敵になる気はなくとも、彼らが会津攻めを命令するのは明白だったのです。継之助は恭順派を一掃し、中立の立場を貫きます。「最新兵器を備えている。中立は保てる。」と、自信はあったのですが…。

6.なぜ長岡藩に戦争をさせた?

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継之助の本音は「武装中立」です。江戸での諸藩の会議で、奥羽越列藩同盟からの加盟要請を断り、中立の立場を貫きました。4月19日には北陸道先鋒総督府参謀の山県有朋が高田(現:上越市)に到着し、長岡にも進軍します。新政府軍との小千谷会談では、和睦への最期のチャンスと継之助は「非戦思想」を訴えるも決裂。徹底抗戦を決意し、奥羽越列藩同盟に正式加盟します。

6-1小千谷談判

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同年5月2日に継之助は、越後国小千谷まで進軍していた官軍本陣へ乗り込みます。西軍の東山道先鋒総督府監察「岩村精一郎(いわむらせいいちろう)」と、本陣付近の慈眼寺で会談。

岩村との会談には、継之助は一人で臨みます。長岡藩には戦争の意志はなく、中立の立場で会津と新政府の仲介役をしたい。そのために少し時間が欲しいと願ったのです。若い岩村は継之助の主張を理解できず、「恭順降伏し、会津討伐の先鋒になれ。」の一点張りでした。

岩村の能力が低かったとの見方が通説ですが、継之助の高慢な態度が問題だったとの見方もあります。結果、奥羽越列藩同盟に正式加盟したのです。長岡は北越戊辰戦争最大の激戦地として焼け野原に。武士を貫いた継之助は、長岡の人々に恨まれることになったのです。

6-2北越戦争の勃発

北越戦争は、新政府軍3万を率いる山県有朋と、約8000人を率いる継之助が戦いました。榎峠に軍陣を置いた新政府軍を倒し、朝日山攻防戦にも勝利します。新政府軍は長雨で増水した信濃川を船で渡り、長岡城を攻めたのです。継之助は城門を背にガトリング砲を撃ち戦うも、5月19日に一度城は陥落。

底なし沼を通り城の東北八丁沖から城を奪回する奇襲攻撃に出ます。7月25日に奪還するも、継之助の左膝に流れ弾が当たり重傷。総督を失った長岡軍は総崩れとなり、4日後に再び長岡城は落ちます。これには、同盟軍の新発田藩の寝返りもあったようです。長岡城奪還作戦は、陸軍史に残る快挙で、名作戦として帝国陸軍の教材になりました。

6-3敗戦後の継之助

城の落城で3ヶ月に及ぶ戦いは新政府軍が勝利し、長岡軍は会津若松に向け敗走したのです。重傷の継之助は山中で一泊し、翌日担架で八十里越えを試みます。途中見晴らしのよい場所で止まり、「八十里 腰抜け武士の 越す峠」との自嘲の句を詠みました。

会津藩領滝原村(現:只見町坂田)の医師矢沢宗益の自宅で、手厚い看護を受けるも、破傷風にかかっており既に手遅れでした。家来に火葬の支度を頼むと昏睡状態に陥り、慶応4(1868)8月16日に41年の生涯を閉じます。長岡の街は全焼し、戦死者は340名・領民100名が犠牲となりました。流浪の身に堕ちた長岡藩は、明治元(1868)年9月23日に降伏しますが、「賊軍」となります。辛い時期もありましたが長岡を復興させました。

継之助は亡くなる前に従者の外山脩造に、「身分制度はなくなり、商人の時代がくる。お前は商人になれ。」と言い残します。脩造は後に、阪神電鉄や大阪麦酒会社(現:アサヒビール)、銀行など、様々な企業を設立しました。

志半ばで亡くなった継之助の無念はどれほどだったでしょう

彼の改革の終焉は、長岡の人々が安心して暮らせる豊か国にすることでした。時代が幕末動乱期でなく時の流れが緩やかだったら、正しいことを考え実行する立派な老中となったでしょう。継之助の教えのように、正しいと思ったことは評価を気にせず、すぐに実行する勇気をもちたいものですね!

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