4.藩政改革を成功へ導く
方谷から学んだことに感謝し正しいと思ったことは必ずやり遂げると誓い、万延元(1860)年に長岡へ帰郷します。継之助に再度職に就くチャンスが訪れたのです。戊辰戦争時の活躍ぶりがクローズアップされていますが、自分の実力で家老にまで出世する偉業を成し遂げます。
4-1誠意を重んじた藩政改革
忠恭は文久2年に京都所司代になりますが、騒動が続く京都の情勢を懸念した継之助の助言で辞しました。文久3(1863)年に老中に抜擢されます。翌年忠恭が継之助を御用人兼公用人に抜擢すると、継之助は内外の情勢を説き、忠恭に「老中のままでは、外交問題に振り回され、今重要な藩政改革まで手が回らなくなる。」と、すぐに辞すよう勧めます。これをもみ消した常陸笠間藩主牧野貞明を罵倒し、また無職となりました。
慶応元(1865)年10月から、郡奉行や町奉行を勤め、藩政改革の現場責任者として主導します。長岡藩は、7万4千石の小国でしたが、新潟港が富を招き新田開発などで、実高14万石もありました。しかし、9代藩主牧野忠清の頃から財政難に陥っていたのです。
継之助は藩政改革に乗り出し、風紀粛正では慣習化した賄賂や賭博を禁止し、遊郭も廃止します。農政改革にも取り組み、河税や株制などの特権を廃止し商工業を発展させ、灌漑工事も行いました。また、兵制改革や人材育成にも取り組み、家臣の禄高を平均化し、次第に藩の財政も豊かになります。
4-2軍備の強化
慶応3(1868)年7月には忠恭は、藩主を養子の忠訓に譲りました。継之助は10月に年寄役に昇格し、藩全体を見る家老に準ずる職に就きます。富国強兵を目指す長岡藩は、幕府の韮山代官江川太郎左衛門や砲術師範の下曾根金三郎の元へ藩士を派遣するなど、西洋式の軍制改革を目指しますが失敗しました。
しかし、藩政改革では約10万両もの余剰金を生み出すなど成功しています。長岡藩が奥羽の雄藩となる基礎を造り上げたのです。
5.藩政のトップに立つ
不明。 – 長岡市立中央図書館所蔵品。, パブリック・ドメイン, リンクによる
世間が尊王攘夷運動に湧いていた慶応3(1867)年10月14日に、徳川慶喜が「大政奉還」を行います。倒幕派は「王政復古の大号令」を発し、翌年1月3日に鳥羽・伏見の戦いを期に戊辰戦争が始まりました。継之助は長岡藩の軍備強化のため、近代兵器を購入します。遊学で幅広い知識を身につけたのが幸いし実力で家老上席となり政務を担当するほどの出世をしたのです。
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5-1徳川に味方するはずが…
継之助の考えは、”長岡藩は徳川への義理を通し、天皇の臣下として戦うべき”でした。藩主忠訓と60名の家臣と共に上洛します。家老に次ぐ年寄役に昇格した裏には、「24歳と若い忠訓では諸藩の要人と渡り合えない。継之助に箔をもたせ周施させよう。」との、前藩主忠恭の目論見でした。
いきなり慶喜が責任を放棄し、江戸に逃げ帰ったのです。徳川へ味方した長岡藩士は、急遽江戸へ戻り忠訓を長岡に帰京させます。江戸に残った継之助は、江戸藩邸を整理し、家財道具や書画骨董などを、横浜の居留地で外国人に売り払い軍資金を作ったのです。
5-2戦には近代兵器を
ファーブル・ブランド商会やエドワード・スネルなど外国商人から、新式銃のミニエー銃数百挺や大砲十数門など新式銃砲を買います。この中に、1分間に200~300発撃てる世界最新鋭のガトリング砲が2門(日本にある3門の内の2門)ありました。1門5千両するので、1万両も払ったようです。
慶喜が見捨てた会津藩と桑名藩と組むか、新政府軍と組むかが重要課題。新政府は、長岡藩は旧政府と組むと見ていたのです。
3月3日にスネルが用意した蒸気船に藩士約150人、江戸で買った大量の銭と藩に残っていた米を一緒に積み込み、東北と函館を経由し新潟に向かいます。函館は米不足で高値で売買でき、江戸と新潟の銭の相場が1両につき3貫文の差額があったため、銭を新潟で売り金貨を買い利ざやを得ました。これは、方谷から習った手法でした。