幕末日本の歴史江戸時代

戊辰戦争の台風の目「河井継之助」とは?藩政改革に邁進した長岡藩の家老の人生を解説

2-2西洋を学ぶ

江戸では古賀謹一郎の久敬舎の門を叩き、朱子学を学びました。彼は、西洋学にも精通しており、火器や貿易、船舶など、国際事情や外交での国を繁栄させる方法も習います。謹一郎の祖父の時代から昌平黌の教官を務めており、久敬舎には蔵書が豊富にありました。皆が寝静まった夜に書写に励んでおり、特に『李忠定公文集』に感銘を受けたようです。

更に佐久間象山(さくましょうざん)の門人にもなります。嘉永4(1851)年に開かれた砲術塾に入り、象山直々に西洋事情や砲術などの軍事知識も学びました。翌年江戸遊学を終え長岡に帰国しますが、藩から声はかかりません。嘉永6(1853)年の黒船来航を期に、継之助は考え方を一新し各藩で独自の改革を進めるよう主張します。

2-3藩政デビューは散々

長岡藩も財政難が深刻化しており、10代目藩主牧野忠雅は、藩政の現状に危機感を抱いていました。藩政改革が必要と考え、有用な人材登用のため、若手藩士たちに藩政改革の上書を提出させたのです。

継之助の他小林虎三郎や川島億次郎など、威勢のいい若者たちを取り立てます。継之助の上書は、改革の必要性を熱誠溢れる言葉で連ねており、即忠雅の眼に止まり御目付格評定方随役に抜擢。新知30石を与えられ、27歳の暮れにやっと部屋住みの身から脱し藩の役職に就きます。

2-4藩政デビューは辛かった

江戸に出府していた継之助は、17歳の誓いを思い出しながら意気揚々と帰国します。忠雅の若手藩士が藩政改革へ携わる案に対して、重鎮たちの中に不満の声が出ていたのです。継之助が任された御目付格評定方随役は、評定所で賞罰や新法を立案する部署。家老や中老や町奉行たちと共に藩政の評定をする機関で、藩政への発言権もある重要な役でした。

出遅れを取り戻したいと必死の継之助は、堂々と藩政に対する意見を述べ、重鎮たちの反感をかい総スカンを食らいます。老中たちから役職を解くように忠雅に進言され、藩主の後ろ盾を失い辞職に追い込まれました。次期藩主として養子に入った忠恭のお国入りが決まり、俊英の藩士が御進講を行うことになります。その一人に選ばれるも、継之助は出世も望める抜擢を辞退したのです。藩当局の怒りを買い、謹慎処分を受けます。

3.生涯の師との出会い

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藩を干された継之助は再び無益となり、苛立つ気持ちを抑えるため、銃砲を学んだり、川島億次郎と奥羽へ旅行したりの日々を送ります。そんな時、再就職が叶い、見事に成功を収めました。褒美に再び江戸遊学の許しを得たのです。そうして、生涯の師と仰ぐ陽明学者山田方谷(やまだほうこく)に学びます。

3-1大岡裁き?解決のご褒美は江戸遊学

安政4(1857)年に、30歳を過ぎた継之助の行く末を案じた父が家督を譲ります。自分の代わりに役職にという、藩当局への猛アピールだったのです。この時期藩主の忠雅は、幕府の家老職を辞し長岡藩は幕政から退きます。翌年8月に病死し、10月に牧野忠恭が新藩主となりました。この頃、安政の大獄で知られる井伊直弼が大老になります。

忠恭が藩主になると、臨時の役職ですが32歳の継之助にはラストチャンスともいえる、外様吟味役に起用されました。長く宮路村では会計処理を巡り、庄屋と農民の間で争いが続いており問題は複雑化していたのです。

前の外様吟味役たちも解決できず長年未決でしたが、庄屋側の非が明らかなことを突き止め、たったの20日で解決します。継之助は庄屋を叱責し、白黒つけては後々まで禍根が残ると、粘り強く説得し和解に持ち込んだのです。継之助の大岡裁きには、藩も納得。直ぐに江戸遊学を申し出て、再び遊学の許可を得ます。

3-2一生の師山田方谷

当時藩政改革の成功者として名を轟かせていた、陽明学者山田方谷の門を叩くため、遊学の許可が下りた翌日の12月28日に峠を越え江戸へ向かいます。方谷の力で財政危機から脱した備中松山藩と同じく、長岡藩も窮地に堕ちいっていたからです。継之助は藩政改革の奥義を学び、自分の力で長岡藩の財政を立て直したいと夢見たのです

崇徳館の恩師高野松陰は江戸遊学時方谷と共に学んでおり、能力も人望も兼ね備えた英俊な人物だったと語ります。継之助が方谷を選んだ理由は、実学を学び実社会に貢献したい思いからです。

そんな時、井伊大老の「安政の大獄」という邪魔が入ります。江戸で寺社奉行に就いていた松山藩主の板倉勝静が寛刑を主張し辞職に追い込まれ、方谷も江戸に来られなかったのです。

3-3遊学で学んだこと

継之助は蛭まず、父に50両の大金を送金してもらい、安政6年6月7日に備中松山(現:岡山県高梁市)へ向かい方谷に学びます。その時に方谷は「改革の原点は、領内の実情を知ること。民衆を大切にする、藩政改革を。」と話しました。

その後、中国地方や四国や九州へ足を延ばします。佐賀の反射炉は画期的で、強く心に残ったようです。開国文明の地長崎へも行き、肌で西洋事情を学びました。

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