三国時代・三国志中国の歴史

三国志の中でも猛将中の猛将「張飛」その生涯を分かりやすく解説!

張飛の最大の欠点

劉備が益州を奪い取ると、張飛は巴西(はせい/重慶市から四川省東部)太守に任ぜられました。

そして219年、劉備は首都を成都(せいと/四川省)に定めます。そして、前線の漢中(かんちゅう/陝西省漢中市付近)の守備を任されたのは…なんと、張飛ではなく、魏延(ぎえん)でした。魏延はまだまだ新参者でしたから、まさか重鎮の張飛を差し置いて、彼が選ばれるとは、周囲の誰もが予想していなかったことだったのです。張飛自身も「我こそが…!」と思っていたでしょうから、当てが外れたと言いますか、少なからずがっかりしたと思います。

しかし、これには理由がありました。

張飛の性格が乱暴であることはすでに触れたかと思いますが、そのことが、彼が漢中の守備を任されなかった要因であるとも言われています。彼の乱暴さを、配下の兵たちが嫌っていたのです。低い身分から出世した張飛は、下の者を見下し、傲慢な態度を取ることがしょっちゅうでした。気に入らなければ死刑にすることもありましたし、むち打ちの刑に処した部下を自分の近侍にして、見せしめのような扱いをすることもあったそうです。その一方で、上流階級である士大夫にはいい顔をしていたため、劉備はたびたび戒めていたようですが、直りませんでした。

そして、これが彼の命取りとなってしまうのです。

部下に暗殺される

221年、劉備は蜀を建国し、張飛は車騎(しゃき)将軍に任命されました。すでに関羽は世を去っており、張飛は実質上、軍のトップに位置することとなったのです。

そして、劉備が関羽の仇討ちのために呉への侵攻を決めると、張飛はそれに参加するために準備を始めました。

しかしそこで、彼は部下の張達(ちょうたつ)と范彊(はんきょう)に殺害されてしまったのです。あまりにもあっけない最期でした。

劉備は、張飛の死の報せを持ってきた使者から内容を聞く前に、「ああ、飛が死んだ」とため息をついたそうです。張飛の横暴な態度を度々戒めていた劉備ですから、いつかこうなることはわかっていたのかもしれません。

豪快さと乱暴さをコントロールできていれば…

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勇猛果敢な張飛は、乱暴という欠点はあるにせよ、劉備や関羽にとっては憎めない弟分だったのでしょう。実際、張飛の彼らに対する敬意と忠義は、他の誰よりも固いものでした。しかし、部下を大事にしない将がいつまでも快進撃を続けられるわけはありません。欠点を改めることのなかった彼が自滅するのは、やはり時間の問題だったのです。それでもやはり、張飛という人物は強く豪快で魅力的。それゆえ、三国志に登場する武将の中でも人気を誇っているのです。

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